『徒然草(つれづれぐさ)』は、中学・高校の教科書に収録されているので、大半の人はその一部分でも読まれたことがあるかと思います。
この書は、清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』と並んで日本三大随筆(エッセイ)とよばれています。
その作者、兼好法師が同書の中で
「何事も、古き世のみぞ慕はしき。今様は、無下にいやしくこそ成りゆくめれ」
と述べています。
これは
「何事も、昔はよかった。今は下品になるばかりだ」
という意味ですが、いったい兼好法師は何を歎いているのかというと
「言葉の乱れ」
についてです。
現代でも言葉の乱れはよく耳にしますが、鎌倉時代に生きられた兼好法師もそのことを取り上げている訳です。
これを読むと、もし兼好法師が現代に生きていたら、やはり同じこと書くのではないかと思ってしまいます。
なぜなら、日本語の持つ豊かな表現や細やかさが、次第に失われつつあるように感じられるからです。
例えば、最近若い人が会話の中でよく
「やばい」
という言葉を口にするのを聞きます。
「これ、やばくね?」とか、
「これ、やばいよ!」
といった具合です。
「やばい」
という言葉は、もともとは犯罪者が自分たちの悪事が警察などにバレそうになった時に使っていたもので、それが一般にもひろまったのだそうです。
当初この言葉は、もともとの
「危険だ」とか「悪い予感」の意味で用いられていました。
ところが、平成に入ってから、いつの間にか若者を中心に
「凄い」とか「素敵」といった褒め言葉やプラス評価を表す表現として、肯定的な意味で使用されるようになりました。
かつて犯罪者の集団が隠語として用いていた言葉が、その反対の意味で、しかも若者だけでなく広く一般に用いられ氾濫しているのですから、兼好法師ではなくても
「昔はよかった。今は下品に…」
と思わずつぶやきたくなってしまいます。
ところで、慣用句などの中にも
「その使い方、間違っているのでは?」
と、気になるような言葉がたくさんあります。
例えば、「煮詰まる」という言葉。
会議をしていてなかなか結論が出ない時に
「話が煮詰まってきたので、今日はここで切り上げて、次回また検討し直すことにしましょう」
という人がいたりします。
「煮詰まる」というのは文字通り
「煮えて、水分がなくなること」で、そこから転じて
「意見が十分に検討されたり、議論が尽くされたりして、結論が出る段階に近づくこと」
も意味するようになりました。
したがって
「話が煮詰まった」のなら、当然結論が出るはずです。
もし切り上げて次回に持ち越すのであれば
「煮詰まった」ではなく
「行き詰まった」
と言うのが適切な表現です。
あるいは、
「あの人は気が置けない人だ」
と言われると、その人のことをどのような人だと思われるでしょうか。
もしかすると
「気が許せない人」とか
「油断できない人」だと判断してしまわれるかもしれませんが、
「気が置けない」というのは、本来は
「気を遣ったり、遠慮したりする必要がない」
という意味ですから、
「気が置けない人」とは
「心を許してつきあえる人」
という意味です。
したがって、正しい意味を理解していないと、その人について全く違う印象を持ってしまうことになりかねません。
また、会議などで議長に選ばれた人が、謙遜して
「私では役不足ではありますが、議長の任をおおせつかりまして…」
などと挨拶されることがあります。
けれども、本来この言葉は
「本人の力量に対して役目が軽すぎること」
の意味ですから、この場合は
「私では力不足ではありますが…」
と言うのが適切です。
したがって
「役不足」と述べたのでは、本人は謙遜しているつもりでも、
「私の力量に対して、役目が軽すぎる」
と不満を表明していることになってしまいます。
ところが、言葉は意味も読み方も時代とともに変化していきます。
平成18年度「国語に関する世論調査」では
「彼には役不足の仕事だ」
を、本来の意味である
「本人の力量に対して役目が軽すぎること」
の意味で使う人は40.3%であるのに対して、間違った意味の
「本人の力量に対して役目が重すぎること」
の意味で使う人が50.3%と、本来の意味を間違えて使っている人との数値が逆転した結果が出ています。
今では、その数がさらに増えているかもしれません。
言葉の変化は
「間違い」⇒「揺れ」⇒「定着」の順で起きていくのが一般的だそうです。
「間違い」の時期は、同時に「揺れ」の時期とも言えます。
これまで正しいとされていた漢字の読みや慣用句の意味など、間違えて読んだり使ったりする人が増えて、半数になった頃が「揺れ」の時期です。
「役不足」など、既に間違いが半数を占め、しかも正しい意味で使う人よりも多いのですから、もしかすると、やがて「役不足」という言葉は
「本人の力量に対して役目が重すぎること」
の意味が正しいとなってしまうのかもしれません。
この他にも「重複」という言葉は、本来は「ちょうふく」と読むのですが、最近は「じゅうふく」と読む人も多く、まさに「揺れ」の時期にある言葉です。
「じゅうふく」と読む人が今後も増え続けると、誰もが「じゅうふく」と読むようになり、将来辞書などに『昔は「ちょうふく」とも読んだ』と付記されるようになるのかもしれません。
ところで、2020年のオリンピックは東京開催が決定しましたが、テレビを見ていて
「招致するためにはプレゼンテーション力が大きな要因を占める」
という印象を持ちました。
それは、言い換えると
「伝える力」
の有無が大きく左右するということです。
これからの国際社会では、いかに相手に自分の考えや思いを的確に伝えるかということが大切になっていくと思われますが、何を見ても
「かわいい」と言い、あるいは
「やばい」と口にする人たちの会話を聞いていると、日本語の未来に少なからず不安を覚えます。
それは、日本語の持つ美しさや繊細な表現、豊かさ、何よりも
「伝える力」
が失われていくように感じられるからです。
確かに、時代の遷り変わりと共に言葉は変化していくものですが、兼好法師の時代と違って、現代はテレビなどを通じて、間違った表現であっても、繰り返し用いられることで、それが急速に広がっていきます。
ときとしてそれは
「流行語」としてあっという間に定着してしまうことさえあります。
それでは、このまま日本語は兼好法師の表現を借りると「無下にいやしくこそ成りゆく」のかというと、一つ光明があります。
それは、テレビの番組には教養度を問うものがいくつかあります。
その中では、漢字本来の読み方や慣用句などの意味が出題されたり、またその中で漢字の誤読や慣用句の誤用などが、問題を通して明らかにされたりしています。
このような番組が制作され、継続して放送されているということは、一定の視聴率があるからだと考えられます。
机に向っての勉強は嫌でも、テレビを見て楽しみながの勉強ならさほど苦にもならないからでしょうか。
このような番組を通して、少しでも日本語がやせ衰えていくことに歯止めがかかればいいな、と思ったりすることです。