ここで問題なのは、この批判を是とし、この批判に対して現生に還相面を見出そうとすることではなく、実はこの批判そのものが根本的に誤っていることを明らかにすることだといえます。
では、根本的な誤りとは何かというと、
「往相の正定聚の位」
についての見解です。
ここに還相位がないと言われているのですが、はたしてそうなのでしょうか。
久松師と同じく、真宗者自身も錯覚しているのは、往相が自利であり、還相が利他であるとする見解です。
そのため、久松師が
「真宗の妙好人は往相の正定聚の位だ」
といわれたことに対して、正定聚の機の実践は自利のみだということで、動揺してしまったのだと思われます。
けれども、親鸞聖人は正定聚の機が自利だとは語ってはおられません。
ここで『浄土論註』に示されている次の言葉に注意してみることにします。
未証浄心の菩薩は、初地已上七地以還の諸の菩薩なり。
この菩薩またよく身を現ずること、もしは百もしは千もしは万もしは億もしは百千万億、無仏の国土にして、仏事を施作す。
要ず心を作して、三昧に入りて、乃しよく作心せざるにあらず。
作心をもっての故に、名づけて未諸浄心と為す。
この菩薩、安楽浄土に生じてすなわち阿弥陀仏を見むと願ず。
阿弥陀仏を見たてまつる時、上地の諸の菩薩と、畢竟じて身等しく法等しと。
龍樹菩薩・婆藪槃頭(天親)菩薩の輩、彼こに生ぜんと願ずるは、まさにこの為なるべし。
ここで、龍樹菩薩や天親菩薩がなぜ、阿弥陀仏の浄土への往生を願われたか、その理由が明確に示されています。
明らかに知られるように、この龍樹・天親菩薩は往相の菩薩です。
その位は、未諸浄心ですが、まさしく往生は決定しているのですから、正定聚の機であることはいうまでもありません。
では、この往相の菩薩はどのように仏事をなすのでしょうか。
その仏道は教化地(還相位)の菩薩と全く同じであって、何ら変わるところはありません。
三昧に入って、他の迷える衆生を救うためのみに、無仏の国土において、一心に利他行を行じておられるのです。
ただし、この未証浄心の菩薩と教化地の菩薩との間には、決定的な差が一つだけあります。
それは、未証浄心の菩薩は
「要ず心を作して、三昧に入りて」
仏事を施作すると示されているように、自ら一心に清浄なる無心を作って、利他の仏事を施し続けます。
これに対して、教化地の菩薩は
「他力釈」
において明らかなように、常に法身の三昧の中にあって、阿修羅の琴のように自然に無心に、無限の利他行をすることができます。
一切の菩薩は、利他の仏道のみを行ずるということにおいて全く同じなのですが、未証浄心の菩薩は、作心してしかそれを行ずることができません。
それに対して、教化地の菩薩は自然に無限の利他行ができます。
この一点に両者の決定的な差がみられます。
このゆえに、往相の菩薩である龍樹・天親菩薩は、阿弥陀仏の浄土に生まれて、還相の菩薩になることを願われたのです。
このようにみますと、往相が自利であり、還相が利他だとする見方は、根本的に誤っているということになります。
いまだ往相が決定していない衆生は自利だ、ということはいえるかもしれませんが、往相が決定している正定聚の機には自利の面など全くないのであって、その意味からすれば『教行信証』は、往相の利他と還相の利他を明らかにしている書だといわねばなりません。
ここで今一度、先に引用した
「悲願の信行えしむれば、生死すなはち涅槃なり」
という和讃に注目してみます。
ここで親鸞聖人は、正定聚の機の心を讃えておられるのですが、この正定聚の機こそ、久松師がいわれる無的主体の利他行の実践者にほかなりません。
では、浄土真宗にとって、還相の菩薩とは、具体的にはどのような菩薩だと見ればよいのでしょうか。
この場合、経典に示されている教化地の菩薩を見ればよいのであって、弥勒・観音・勢至といった菩薩がここで思い起こされることになります。
龍樹・天親菩薩が未証浄心の菩薩であり、弥勒・観音・勢至が教化地の菩薩です。
前者が往相の、後者が還相が利他行の菩薩なのです。
この弥勒・観音・勢至といった利他行の菩薩が、この世に存在するはずはありません。
具体的に人間の相をもって、自然に無限の利他行ができる、そのような還相の菩薩がこの世にいてくださるとよいのですが、残念ながらこの世にはおられません。
したがって、この世における菩薩行の実践は、どこまでも往相の利他行でなければならないのです。
そして、それを実践されたのが龍樹・天親菩薩なのであり、より具体的には、正定聚の機が仏道を歩む姿なのです。
親鸞聖人は、この往相の正定聚の機の実践を、浄土真宗の行として
「行巻」に説かれたのであり、さらに還相の菩薩の実践を
「証巻」に明かしておられます。
しかもこの両者は、共に、現生に直接かかわる利他行の実践として、親鸞聖人は語っておられます。
このような観点から見る、親鸞聖人の思想における
「往相・還相」についての論考は、今日まであまり試みられていません。
そこで、以下、この問題を掘り下げていくことにしたいと思います。