ご講師:野澤松也さん(歌舞伎義太夫三味線方)
私は最初「文楽」をやっていたんですよ。
それも不思議なご縁でして、私が14歳のときでした私の母は長唄を習っていまして、私に勧めてきたので一緒に習うようになったんです。
グループサウンズが流行っていた当時、自分1人だけ三味線をやっていたので、
「変わり者だ」
と言われていました。
そして16歳のときに、始めてテレビを文楽を見たんです。
私がお稽古をしていた細竿の長唄三味線と、文楽の太棹竿の義太夫の三味線は音が全然違いました。
主人公の喜怒哀楽や情景描写が三味線の音とともにはっきりと身体に入ってくるんです。
こんな素晴らしい音が出るんだと感動してその日は就寝しました。
そして翌朝新聞を見ると、一面に東京の国立劇場で文楽の第一期生を募集中と書いてあったんですよ。
昨夜見ていたものが、今朝には現実と化している。
これはもう素晴らしいと思って、すぐに親に願書を出してもらいました。
もしその夜にテレビの文楽を見ていなければ、朝刊に文楽の募集が書かれていても分からなかったでしょうし、夜に文楽を見ていいなと思っていても、朝その新聞を見ていなければ、今の私はここにいないんです。
そういうつながりがあって、三味線を弾いて生きる今の自分があると思うと、とても不思議なご縁を感じます。
それで、16歳のときに広島から東京に出て、2年間の研修を受けた後、師匠の内弟子になりました。
大変ながらも、いろいろお世話になって楽しく稽古させて頂いたんですが、弟子入りして1年で師匠が亡くなられたんです。
文楽はちゃんとした師匠のもとでないと舞台に上がれない厳しい世界なので、大阪で新たに弟子入りしました。
ところが、そこではどうにもうまが合わなくて、4年も経つと我慢ができなくなって飛び出してしまいました。
実家に帰る訳にもいかず、アルバイトで食いつないで1年ほどたった頃、国立劇場でお世話になった養成課の課長さんと再会したんです。
そこで
「実は歌舞伎の方も三味線の弾き手、後継者がいなくて大変なんだ。よかったら歌舞伎の方に来てきれないか」
と言われたんです。
私はもともと三味線が好きでしたし、歌舞伎の世界でも義太夫の三味線が弾けるのなら、ということで、東京で歌舞伎の三味線を弾くようになりました。
そして、今に至るという訳です。
文楽と歌舞伎との大きな違いは、両方とも太竿という種類の義太夫三味線なんですが、文楽の場合は、三味線の音色と太夫がしゃべる節・言葉が主となり、周りがそれに合わせて演じるのに対し、歌舞伎では役者さんが主になります。
ですから、太夫と三味線弾きは、役者さんに合わせて弾かないといけないんですね。
もちろん太夫さんは歌舞伎役者さんがいますので、台詞を発することはありません。
説明、ナレーターの所だけを語るんです。
歌舞伎は、文楽での経験があっても大変で、いつも役者さんに注意されたり怒られたりしていました。
そういう期間を経て、今では私も50代になり、上の方まで来てしまいました。
もう先輩が1人くらいしかいないんですよ。
後はみんな後輩になってしまいました。
それもあって、なかなか私も仕事を休めないのが現状です。