親鸞・去来篇(8)

いつものように、学生たちへ、華厳法相の講義をすまして、法隆寺の覚運が、橋廊下をもどってくると、

「僧都さま」と、いう声が足もとで聞えた。

覚運は、橋廊下から地上へ、そこに、手をついている範宴のすがたへ、じろりと眼をおとして、

「――何じゃ」

「おねがいがございまして」と、範宴は顔を上げた。

そして、覚運が眸でうなずいたのを見て、十日ほどの暇(いとま)をいただいて京都へ行ってきたいとい願いを申し出ると、覚運は、

「観真どのでもご病気か」と、たずねた。

「いえ、弟のことについて」

範宴は、そういう俗事に囚われていることを、僧都から叱咤されはしないかと、おそれながらいうと、

「行ってくるがよい」と案外な許しであった。

そればかりでなく、覚運はまたこういった。

「おん身が、ここへ参られてからはや一年の余にもなる。わしの持っている華厳の真髄は、すでに、あらましおん身に講じもし、また、おん身はそれを味得せられたと思う。このうえの学問は一に自己の発明にある。

ちょうど、よい機(おり)でもある。都へ上(のぼ)られたならば、慈円僧正にもそう申されて、次の修行の道を計られたがよかろう」

そういわれると、範宴はなお去り難い気もちがして、なおもう一年もとどまって研学したいといったが、僧都は、

「いやこれ以上、法隆寺に留学する必要はない」といった。

計らぬ時に、覚運との別れも来たのである。

範宴は、あつく礼をのべて引き退がった。

性善房にも告げ、学寮の人々にもそのよしを告げて、翌る日、山門を出た。

同寮の学生たちは、

「おさらば」

「元気でやり給え」

「ご精進を祈るぞ」などと、口では祝福して、見送ったが、心のうちでは、

(ここの烈しい苦学に参ってしまって、とうとう、僧都にお暇をねがい出たのだろう)と、わらっていた。

範宴は、一年余の学窓にわかれて、山門を数歩出ると、

(まだなにか残してきたような気がしてならぬ)と、振りかえった。

そして、

(これでいいのか)と自分の研鑽を疑った。

なんとなく、自信がなかった。

そして、朝夕に艱(かん)苦(く)を汲んだ法輪寺川ともわかれて、小泉の宿場町にはいると、すぐ、頭のうちは弟のことでいっぱいになっていた。