いつものように、学生たちへ、華厳法相の講義をすまして、法隆寺の覚運が、橋廊下をもどってくると、
「僧都さま」と、いう声が足もとで聞えた。
覚運は、橋廊下から地上へ、そこに、手をついている範宴のすがたへ、じろりと眼をおとして、
「――何じゃ」
「おねがいがございまして」と、範宴は顔を上げた。
そして、覚運が眸でうなずいたのを見て、十日ほどの暇(いとま)をいただいて京都へ行ってきたいとい願いを申し出ると、覚運は、
「観真どのでもご病気か」と、たずねた。
「いえ、弟のことについて」
範宴は、そういう俗事に囚われていることを、僧都から叱咤されはしないかと、おそれながらいうと、
「行ってくるがよい」と案外な許しであった。
そればかりでなく、覚運はまたこういった。
「おん身が、ここへ参られてからはや一年の余にもなる。わしの持っている華厳の真髄は、すでに、あらましおん身に講じもし、また、おん身はそれを味得せられたと思う。このうえの学問は一に自己の発明にある。
ちょうど、よい機(おり)でもある。都へ上(のぼ)られたならば、慈円僧正にもそう申されて、次の修行の道を計られたがよかろう」
そういわれると、範宴はなお去り難い気もちがして、なおもう一年もとどまって研学したいといったが、僧都は、
「いやこれ以上、法隆寺に留学する必要はない」といった。
計らぬ時に、覚運との別れも来たのである。
範宴は、あつく礼をのべて引き退がった。
性善房にも告げ、学寮の人々にもそのよしを告げて、翌る日、山門を出た。
同寮の学生たちは、
「おさらば」
「元気でやり給え」
「ご精進を祈るぞ」などと、口では祝福して、見送ったが、心のうちでは、
(ここの烈しい苦学に参ってしまって、とうとう、僧都にお暇をねがい出たのだろう)と、わらっていた。
範宴は、一年余の学窓にわかれて、山門を数歩出ると、
(まだなにか残してきたような気がしてならぬ)と、振りかえった。
そして、
(これでいいのか)と自分の研鑽を疑った。
なんとなく、自信がなかった。
そして、朝夕に艱(かん)苦(く)を汲んだ法輪寺川ともわかれて、小泉の宿場町にはいると、すぐ、頭のうちは弟のことでいっぱいになっていた。