敵だから、つぶすわけにはいかない

1月28日付朝日新聞の夕刊に次のような記事が掲載されました。

「東北のかたすみで発行する小さな新聞に、地域の有力者たちが向けた一言。『敵だから、つぶすわけにはいかない』――。ジャーナリスト、むのたけじさん(99)が、半世紀前のできごと近著(『99歳一日一言』岩波新書)で明らかにした。」

(むのさんは、秋田県生まれ。「戦時報道の責任を取る」として、1945年に朝日新聞を退社。郷里に近い同県横手市で1948年、タブロイド判2ページの週刊新聞「たいまつ」を創刊。子どもたちの手も借りての家族経営。)

むのさんは、「地元選出の国会議員に注文をつけ、地域の疲弊の向こうに政治の問題を突き、日米安保や国際平和に至るまでを農村の一隅から論じた。」方だそうです。

記事によれば、

「それまでの歩みをまとめた初めての著作《たいまつ十六年》を刊行したある日、自宅の電話が鳴った。

『あしたおめのお祝いやるがら、出でこいよ』。

元市長と元市議長、商工業者の3人が出版祝賀会を開いてくれるという。

編集方針からすれば対抗勢力といってもいい、地域の顔役ばかりだ。

いぶかしい思いを抱え市内随一の料亭に赴くと、大広間には地元の有力者が顔をそろえていた。

周りは全部“保守”のこりこりなわけだ。

『居心地が悪かろう』と共産党の議員だった人も呼んでくれて、16人で『まあ飲むべ』と。

3人に近寄り、尋ねた。

『あんたがだ、なしてこういう会開いでくれだの』

3人は口々に言った。

『《たいまつ》』は、おらだぢの敵だ。敵だがら、つぶすわげにはいがねのだ』

むのさんは、『この言葉が、すごく重くてねえ。かみしめようと思って、ずーっと話さず、書かずに来たのよ』」と。

これは、今から半世紀前の出来事だそうです。

「敵だから、つぶすわけにはいかない」というのは、なかなか意味深な言葉です。

普通「敵」というのは、自分が戦う相手で、力をもってたたきのめすべき対象です。

ところが、横手市の有力者の人たちは「敵だから、つぶすわけにはいかない」と言われたのだそうです。

この「敵たがら…」という言葉の奥には、いったいどのような意味があるのでしょうか。

おそらく、地域の有力者の人たちは、「敵」であるむのさんに「煙たい存在」と感じる一方で、尊敬の念を抱いておられたのではないでしょうか。

近年は、0と1で構成されるデジタルの時代を反映しているのか、物事の一方を善とし、他を悪とする在り方が多いように思われます。

このような分け方は、確かに「分かりやすい」という感じもしますが、AとBとがある場合、すべての面において、Aが○でBが×ということだけではないはずです。

時には、AとBのそれぞれ良い面を折衷して、Cが生まれることもあります。

たとえば、資本主義と社会主義。

どちらか一方だけに偏るのではなく、相互に批判をする中から、修正資本主義が生まれました。

まさに、「敵だからつぶした」のでは、生まれなかった思想です。

「敵」だからといって、「つぶす」ことばかりを考えていると、互いに憎悪の感情は増すばかりです。

そして、そこでの関心は「相手の問題点や欠点を探すこと」ばかりに集まり、「敵から学ぶことなど論外」ということになります。

もし、念願かなって「敵をたたきつぶした」としても、その後に残るのは「自分の周りは味方ばかり」という状況ですが、果たしてそのような中にあって、私たちは自分の間違い気付くことができるのでしょうか。

民主主義の良い点は、そこに反対勢力の存在を認めることです。

したがって、どれほど国の名前に「民主主義」を謳っていても、一党独裁では現実は羊頭狗肉ということにならざるを得ません。

「他人の悪口は嘘でも面白く、自分の悪口は本当でも腹が立つ」といいます。

確かに、他人の悪口は嘘でも面白いものですが、自分のこととなると、それがたとえ本当であっても注意や諫言は耳にし辛いものです。

また、私の問題点をきちんと指摘してくれる人、言い換えると「本当のこと」を口にしてくれる人は極めて稀です。

なぜなら、自分自身、いつも本当のことばかりを口にしている、「友だちの少ない人生」を覚悟しなければならないからです。

人は誰もが、意識する、意識しないとにかかわらず、「間違い」を犯してしまう存在です。

だからこそ、その間違いに気付いたり、正したりするためには、それをちゃんと指摘してくれる「敵」が必要なのです。

横手の有力者の人たちは、このことを知っていたからこそ、「敵だから、つぶすわけにはいかない」と語ったのではないでしょうか。

仏教は、どこかの誰かのことを語っているのではなく、この私を明らかにする教えだと言われます。

唐の善導大師は、「経教はこれを喩うるに鏡のごとし」と述べておられます。

仏さまの教えは、決して「敵」ではありませんが、「敵だから、つぶすわけにはいかない」の心情になぞらえると、「(仏さまの教えは)自分を正すためには、聞かずにはおれない」と、味わうことができるのではないでしょうか。

【確認事項】このページは、鹿児島教区の若手僧侶が「日頃考えていることやご門徒の方々にお伝えしたいことを発表する場がほしい」との要望を受けて鹿児島教区懇談会が提供しているスペースです。したがって、掲載内容がそのまま鹿児島教区懇談会の総意ではないことを付記しておきます。