「生きる」というのは、いったいどのようなことなのでしょうか。
「生きる」ということは、誰もが何となく自分では分かったつもりでいるのですが、改めて問われるとすぐに答えるのは案外難しいものです。
そこで考えてみますと、私たちのいのちは、最小限「四つの限定」を持っているということに気が付きます。
一は「一回限り」ということです。
そのため、決してやり直すことができません。
二は「単独」ということです。
私の人生は私だけの人生であって、誰に替わってもらうこともできません。
三は「有限」ということです。
このいのちには、限りがあります。
四は「無常」ということです。
これは、有限の終わりがいつくるのか、分からないということです。
つまり、私のいのちは
「一回限りで反復が許されず、単独的で誰にも替わってもらえないし、どれほど無限を夢見ても有限であり、しかもその有限の終りはいつ来るか分からない」
これが、私の、そして人間が生きているということの事実そのものです。
このように、誰もが最小限、この四つの限定を生きていると言えるのですが、果たして私たちは毎日の生活の中で「生きている」という実感を持ち得ているでしょうか。
振り返ると「昨日を生きた」「今日を生きた」という実感を持って、生き生きと生きていると、確かに頷くことができているでしょうか。
それは、生きていく生活実感として、「生きる」と本当に自分で言い切れるような積極性を持ち、あるいは充実感を持ち、そして一年、一カ月、一週間、一日を振り返って、「ああ、本当に生きた」と、能動的な感覚で実感できているかどうかということです。
一つの灯火をどれ程持ち歩いても、それが輝かなかったならば何の意味もない。
灯火は輝くなくてはならない。
輝くためには燃えなくてはならない。
燃えるとは苦しむことである。
それは、死そのものも含んでいる。
と、言われた方がおられます。
「一つの灯火をいつまで持ち歩いても、それが消えた灯火で輝かなかったら何の意味もないし、輝くためには燃えなければならないが、それは苦しむことであり、死も例外ではない」
と言われるのです。
もしかすると、私の人生というのは一つの灯火を持ち歩く人生なのかもしれません。
そうすると、「生きる」という実感を持てないとするならば、それは自分の手にしている灯火が点いているのか消えているのかわからないままに歩いているということになります。
その一方、自身の灯火を輝かせるためには、苦しみをともなうと言われます。
しかも、最後まで輝き続ける、つまり燃え続けるということは、最後まで苦しむということになります。
この最後とは何かというと、死ぬということです。
私たちは、生きていく中での一番の不幸は自身が死ぬことであると思い、そのことを何よりも恐れています。
ところが、その死さえも、輝くことの内容になるかならないか、そういうことが、実は人間にとって一番大事なことではないかと言われるのです。
そこで、改めて「生きる」ということについて考えてみますと、「生」という字には「生まれる」ということと、「生きる」ということと、「生む」ということとの三つの意味があることが知られます。
言葉をかえて言うと「誕生する」「生きていく」「生産する」という三つの要素をもっているのが「生」です。
このことから、「生きる」というのは、ただ漠然と死なないでいるということではなく、その具体的事実として「何事か新しい自己を生み出す」という能動性を持っていなければ、本当の意味で「生きている」と実感することは難しいのではないかと思われます。
ですから、どれほど忙しさに追われるように生きていたとしても、それだけでは「生きた」という気にはなれません。
ただ「疲れた」と感じるだけのことです。
それは、自分では懸命に生きているようでも、ただ死に向って歩いているだけのことに過ぎません。
確かに、私たちの人生は、事実としては産声をあげた瞬間から死に向って歩いていると言えます。
そのため「生きているとはどのようなことか」と問われると、身の事実としては「死に向って歩いている」と言わざるを得ません。
そうすると「生きる」という実感を持つことができなければ、本当の意味で「生きた」とは言えないのかもしれません。
では、「生きる」というのは、いったいどのようなことなのでしょうか。
それは「生まれること」に他なりません。
この「生まれること」とは、肉体が誕生することの説明語ではなく、「生まれる」ということが「生きること」の内容になってこそ、初めて人間の一生は、確かに事実としては死に向っての歩みではあっても、その中身は「生まれる」という事実を一刻一刻生きていくということを意味します。
まさに、私たちはいのちの終わる時まで、「生まれる」という事実を生きていくのです。
それは、嬉しいことや楽しいことだけでなく、悲しみがやってくれば悲しみを知った自分に新しく生まれるのであり、辛いことがやってくれば辛いことを引き受けていくような新たしい自分に生まれるということです。
そのような人生が「生まれていくいのち」です。
そして、いのちの終わる時、つまり死の瞬間が一番新しい私になって「生(せい)」を全うするのです。
身の事実としては、生まれた瞬間から死に向っての歩みではあっても、いのちの終わる時まで生まれ続けていく人生。
苦しみや悲しみや、いろいろな経験の中の煩いや、時には死にたいような思いや、そのすべてを新しい自分に生まれる素材にしながら、いのち終わる時まで生まれ続けていって、いのちの終わる時が一番新しい自分になり、「生きてよかった」と言える自分になって死んでいけるような人生。
それがまさに「生まれたことの意味に頷くこと」だと言えるのではないでしょうか。