今から30年ほど前、大学の卒業を控えたある日のことです。
普段から親しくしていた友人が缶ビールを下げて私の下宿を訪ねてきました。
「いよいよおれも卒業だ。この4年間、学資を工面してくれた親にはとても苦労をかけたので、卒業を機に、今までアルバイトでコツコツ貯めてきたお金でお礼のプレゼントをすることにしたんだ」
と、友人は興奮気味に話しました。
私は、親の恩に報おうとする友人の言葉に感心するとともに、そのようなことを寸分とも思ったことのない自らをとても恥ずかしく思いました。
しかし、問題はその全貯金をはたいて求めたプレゼントです。
それこそ清水の舞台から飛び降りた気持ちで求めたものは30万円もする印鑑でした。
印相がとても優れていてその印鑑を所持するだけで家庭に安全と幸福がもたらされると、女性の販売員から説明を受けたというのです。
価格があまりにも高額な上、話に不可解さを感じた私は、思わず考え直した方がよいのではないかと友人に言いました。
もとより純粋で何事も信じやすい性格の彼は、
「絶対良い印相だ」
「何回も話の内容を確認した」
「必ず親は喜んでくれる」
と言って、なかなか私の話に首肯してはくれません。
しかし夜通し語り合いようやく理解を示し、翌日友人は解約に出向きました。
後に分かったことですが、その印鑑を販売した団体は、人々の不安を煽り高額な置物や宗教用具を販売する商法で世間を騒がせた宗教団体で、友人も「ようこそ購入を止めてくれた」と言い、私も安堵することでした。
世のなかには多くの宗教があり、私たちの人生や生活が豊かになるようにと様々な教えや言葉を以て人々を誘います。
もし出遇った教えが本物で真実であれば、その人生は確かな意味と目的を持ち力強く豊かなものとなります。
しかし、それが偽物であったなら、逆に誤った方向へと導かれていくことでしょう。
国民的代表作家といわれた吉川英治さんの詩に、『人生列車』というものがあります。
「発車駅の東京駅も知らず、横浜駅も覚えがない、丹那トンネルを過ぎた頃に薄目をあき、静岡あたりで突然『乗っていること』に気づく、そして名古屋の五分間停車ぐらいからガラス越しの社会へきょろきょろし初め『この列車はどこへ行くのか』と慌て出す。もしそういうお客さんが一人居たとしたら、辺りの乗客は吹き出すに極っている。無知を憐れむにちがいない。ところが人生列車は、全部の乗客がそれなのだ」。
「発射駅の東京も知らず」とは、人が生まれたときで誰も意識はありません。
「横浜駅も覚えがない」とは幼年期で、ここでも自分の人生など意識しません。
「丹那トンネルを過ぎた頃」は少年期。
家庭や学校、地域での生活を通して、いのちや人生というものを少し意識し始めます。
「静岡あたり」が青年期・壮年期です。
私も壮年の一人ですが、既に中学時代の同級生5人を病気で失いました。
僧侶の身ではありますが、まさかお棺に横たわる同級生の前で葬儀を勤めることなど考えても見ませんでした。
しかし、その身近な友の死を通して、自分自身とは遙か遠いところにあった「死」という問題が突然眼前に現れました。
これまで生きては来たけれど、自分がこの世に生まれたことの意味やその人生の目的は何だったのか。
自分のいのちはどこに向かっているのか。
静岡あたりまで来て、やっと人生という列車に乗っていることに突然気づくというのです。
そして「名古屋の5分間停車で」慌ててその答えを求め、窓の外を必至で見回します。
行き先も目的も知らぬまま乗ってきたとは滑稽な話です。
そのお客さんを見て周囲の乗客は哀れむことでしょう。
ところが人生という列車の全乗客がそれなのだと…。
この詩は、自分がこの世に生まれてきたことの意味や人生の目的。
そして確かないのちの行き先を問うことのない人生は、いくら長く生きようともムナシイ人生に終わりがちなことを示唆されたものと、私は味わっています。
そして世のなかには多くの宗教がありますが、まさしく真実の宗教は、私が生まれたことの意味や目的を顕かにしてくれるものでなければなりません。
数ある宗教の中で
「教祖がキリストやブッタの生まれ変わりである」、
「入退会が自由にできない」、
「信仰のために高額なお布施を要求したり、高額な品物を買わされる」、
「除霊や呪術と称して高額なお金を要求される」、
また「信仰することで商売がうまくいったり、病気が治ったり、事故に遭わない」
などという宗教には、私は首を傾げてしまいますし危険なものさえ感じます。
これらの宗教からは、確かな人生の意味や目的を見いだせるとは到底思えません。
仏教の開祖であるお釈迦さまは、
「生まれによって賎しい人となるのではない。生まれによってバラモンとなるのではない。行為によって賎しい人ともなり、行為によってバラモンともなる」(『ブッタのことば』)
とおっしゃいました。
バラモンとは、当時のインドにおける生まれつき尊い身分とされた階級のことで、お釈迦さまはその生まれによる差別を否定されました。
そして、「生まれを問うことなかれ、行いを問え」と、教祖であれ信者であれ人のいのちに優劣はなく平等で、人が賎しくなるのも、尊くなるのもその人の行為、生き方によるのだと明言されています。
教祖が歴史上の人物の生まれ変わりなどという宗教は、あらかじめ教祖の生まれに箔を付けて、教祖とあなたたちとは身分や立場が違うのだと言っているに他なりませんし、そのような宗教ほど不条理な権威を以て信者の自由を奪いがちです。
またお釈迦さまはこのようにもおっしゃいます。
「バラモンよ。木片を焼いたら清らかさが得られると考えるな。それは単に外側に関することであるからである。外的なことによって清浄が得られると考える人は、実はそれによって清らかさを得ることができない」(『ブッタ悪魔との対話』)
これは、火を使った呪術によって祭儀を司っていた当時の社会に対する言葉です。
火の儀式によって穢れが払われ、身が清められ悟りが得られると考えている人々に対して、お釈迦さまはそれを否定されたのです。
自らの心の奥底を見つめることなく、外的で、形式的な儀式のみによって悟りが得られるということに対する批判でもあります。
お釈迦さまは、迷信や妄想や祟りを恐れ、占いやまじないや呪術などに頼り、ほんの一時の、しかもまやかしの安寧に身を委ねるような生き方を否定されたのです。
私たちは、この世に生まれた瞬間より老、病、死という重いリュックを抱えました。
しかも病と死には後先順番がありませんし他人と代わることもできません。
そしていつどんなときに私の番が来るか計ることさえできません。
さらに、人は皆それぞれ幸せを求めて生きるのですが、どうも自分の思い通りにならないことの方が多いようです。
仏教の開祖・お釈迦さまは、そのような私たちの人生の現実から目を背けるのではなく、直視することの大切さを説かれました。
そして厳しいいのちの現実を見通した末に、いかなる人生の高い壁に阻まれようとも、どのような高い波に襲われようとも、怯まず迷わずそれらを乗り越えていくことのできる、私のいのちを根底から支える真実の教えを示されました。
それを仏教といいます。
あなたが生まれてきた意味は何ですか。
あなたの人生の目的はなんですか。
あなたのいのちはどこへ向かっていますか。
一度きりの人生、あなたには確かな指標がありますか。
それを仏さまの教えに問い、まことの人生の意味と目的を聞き開いていく、それを仏道といいます。