東山に雲が低く降りていた。
白く乾いた道に、埃(ほこり)が舞う。
「おお、ひどい」どこかの奥仕えらしい中年の女が、立ちすくんで、裳(もすそ)を押えた。
落花を捲いてゆくつむじ風が、女の胸にかかえている一枝(ひとえだ)の牡丹(ぼたん)の葉をむしるように強く吹いた。
「童女(わらべ)、童女、傘をさして賜(た)も」風がすぎると、もうぱらぱらと雨がこぼれてきた。
柄(え)の長い飴色(あめいろ)の大きな傘を、童女(わらべ)はうしろから翳(さ)しかけた。
「聖光院はまだかの」
「あの白い壁の御門がそうではありませんか」
雨は小粒になって、風も止み、雲も切れて、湯気のような春光の中に、どこかで啼く鶯(うぐいす)の声がしていた。
童女は、濡れた傘をたたんだ。
そして聖光院の式台へかかって、
「おたのみ申します」といった。
坊官が出てきてひざまずいた。
そして、女の姿と、牡丹の枝に眼をみはった。
女はしとやかに、
「私は、月輪(つきのわ)禅閤(ぜんこう)の奥に使える万野(までの)と申すものでございますが、御門跡様へお目にかけたいとて、室咲(むろざき)の牡丹を一枝、お姫(ひい)様(さま)の思し召で持参いたしました。また、この御書面は、お父君の禅閤(ぜんこう)様(さま)からのお墨、御返事をいただけますれば倖せにぞんじます。……どうぞよしなに、お執(とり)次(つ)ぎを」
と、牡丹に添えて、書面をさしだした。
坊官は、木幡民部へ、その由をつげた。
民部は、月輪からの使いと聞いて、
「どうぞご休息を」と、万野を控えの間へ通した。
「これはお見事な……」と牡丹をながめて民部はつぶやいた。
花はまだ開いていないが、雨に濡れた葉の色が美しかった。
さっそく、範宴の室へ、民部はそれを持って行った。
範宴は、姫からの贈り物と聞いて、眉に、よろこびをたたえた。
書面を一読して、すぐ、返事を認(したた)めた。
そして使いを帰した後で、みずから白磁(はくじ)の壺をとりだして、それへ牡丹を挿(い)けた。
「……あの人の姿のままだ」
白磁の水ぎわから生々と微笑(ほほえ)んでいる枝ぶりをながめて、範宴はその日の憂鬱を忘れていた。
禅閤からの書面には、いつぞやの礼を尽くしてあった。
玉(たま)日(ひ)姫(ひめ)の難を救ってもらったことが、父として、どれほどかありがたくうれしかったものとみえて、その礼の使者は今日ばかりではない、青蓮院の僧正を通じたり、直接に家臣を向けてよこしたり、あらゆる感謝の意を示したのであるが、範宴にとっては、今日の牡丹の一枝ほどうれしい贈り物はなかった。
しかし、それでもまだ禅閤は恩人に対しての誠意があらわしきれない気がするものと見えて、今日の書面では、ぜひ、青蓮院の僧正と共にいちど館へ遊びにきていただきたい、なにも、ご歓待はできないが、月輪の桜も今がさかり、月もこのごろは夜はわけても佳(よ)し、折から、めずらしい琵琶(びわ)法師(ほうし)が難波(なにわ)から来て滞在しているから、平家の一曲をお耳に入れ、姫や自分からも、親しく、先ごろのお礼を申しのべたい、という懇切な招きなのであった。
範宴は、いずれ僧正と相談の上で――と返辞したが、心はむろん行くことに決めていた。