「笑顔一つ」(上旬)冷たい息子でも

ご講師:佐々木俊朗さん(仏教月刊誌『御堂さん』編集長)

私が二十六歳の時でした。

おやじが川向こうにあるお寺へ隠居したので、生れた寺を私が継がんといかんことになった。

兄貴は戦死しましてね。

ところがお寺継ぐのが嫌でたまらんかった。

それで寺を飛び出して、山口県で三文雑誌のつまらん記者をしたりして二年、三年過ごしました。

その後、東京の読売新聞の文化部、あのころでは格のある新聞社の窓口ですが、そこへ紹介してくれる人がありました。

どうしても東京で勉強したい、それで東京に旅立つことにしたんです、喜び勇んでね。

ところが山口から大阪通るとき、

「一年半大阪で降りてない。おやじの顔をちょっとぐらい見ようか」

とへんな気持ちが起こったん。

それで大阪で降りて寺へ帰ったら、おやじが座り込んで

「頼むから後を継いでくれ。名前だけでもええからお寺の後と継いでくれ、それでないと家が持っていかん。どうしても川向こうのお寺はわしが住職せないかんから…」。

名前だけでもちゅうことになりましてね。

その時、ふと七つの時に別れた母親がどうしてるかなと気になったんです。

それでのぞきに行ったんですよ。

場末の古いアパートの中の四畳半に一人暮らし、やっぱりぜんそくなんです。

心臓抱きながら一人せまい部屋でうなっとる。

なんぼ冷たい息子でもほっていくわけにいかんじゃない。

しかしあの時代、東京まで連れていくだけのお金はない。

しょうがない、わが寺へ帰るしか道がない。

それで総代さんに言うた。

「無理やと思うけど、もし別れた母親を引き取らせてくれるなら後を継いでもええ」。

間違えやった。

ほんなもん二度目の母親はまだ五十二、三でしょう。

川向こうとはいえ寺におる。

おやじもむろん元気。

そんなとこへ別れた二十年前の母親連れていけるわけがない。

ところが総代が偉かったねえ。

「ぼん、よう言いなはった。

親子は絶対切れん。

誰が引き裂こうとしても切れん。

まかしときなはれ。

わしが行って必ず話を付けてきます。

同じ家で暮らすんなら無理やけど、必ず一緒に暮らさします。

そやから継いでくれまっか」。

そう言われたらしょうないわ、継ぐ言わんと。

それが私が住職なったきっかけなんです。

母親とは三年間、一緒に暮らしました。

だけどどっちも憎み合っていて…。

母親は

「帰ってきたけれども孝行はしてくれん、毒づかれる。こんなとこへ帰ってくるんやなかった」

言うて、ほんま最初の二年半は地獄のような毎日でした。

私も

「お前なんかがうろうろ生きてるから、わしが勉強もでけん、東京も行けんとこないしておらないかん」

と、心の中で、何べんわが母のことを殺したことか。

ほんまに今思うたらたまらんがね。

しかし、ご縁て有り難いもんだと思う。

というのはお寺で生まれてお寺に嫁ぎ、お寺から出ていって二十年目にまたお寺に帰ってきて、そして三年間おって、なんと、ご法義のごの字もなかった母親が、最後の半年

「なんまんだぶつ、なんまんだぶつ」

とお念仏称えて喜んで死にましたよ。

これでもかこれでもかいう如来さんのご催促だったんでしょうね。