浄土の世界(はたらき)を象徴する鳥として、『仏説阿弥陀経』には、「共命(ぐみょう)の鳥」が登場します。
この鳥は孔雀(くじゃく)、鸚鵡(おうむ)らと共に極楽浄土の空を舞い、その美しく鳴く声は、三宝帰依の心を起こさせると説かれています。
それでは、この「共命の鳥」とは、どのような鳥なのでしょうか。
『仏本行実経』によりますと、この鳥は昔、ヒマラヤ山脈に住んでいました。
身体は一つで、頭が二つある二頭鳥で、お互いの頭は意思を持っており、一頭の名前をカルダ、もう一頭の名前をウバカルダといい、一頭が目覚めている時、もう一頭は眠っています。
ある時、カルダは眠っているウバカルダに黙って、たまたまあった果実の花を食べました。
なぜ起こさずに果実を食べたかというと、眠っているのを起こすのが気の毒であり、自分が食べることで相手の栄養にもなるとの判断からでした。
しかし、ウバカルダは目を覚ました後、黙って食べられたことに対し、腹を立てて憎悪の思いを起こしました。
またある時、今度は毒花に遭遇(そうぐう)します。
憎悪の思いを抱いているウバカルダは「この毒花を食べて、二頭ともに死んでしまおう」と思い、カルダを眠らせ自ら毒花を食べてしまいます。
眠りから覚めたカルダは同じ身体から運ばれてきた毒によって苦しみ、瀕死(ひんし)状態の中ウバカルダに言います。
「昔、私が、お互いに利益があり、いいことだと思って果実を食べたことに対し、あなたはかえって憎悪の思いを起こしました。まことに瞋恚(しんに)や愚痴(ぐち)というものには利益はありません。このような愚かな心は、自らを傷つけ、他人をも傷つけてしまうからです。」
結局、良かれとの判断が誤解を招き、怒りのこころによって共に滅びてしまったのです。
この「共命の鳥」は、「我・他・彼・此(が・た・ぴ・し)」とした人間関係の中、溝や壁を作ってしか生きていけない、この世の迷いの姿を象徴しています。
財産をめぐっての骨肉の争いをする兄弟、相手の失敗をほのかに期待するライバル関係など、世の中に「共命の鳥」は満ちています。
本来は一つのものであるにも関わらず、自己中心的な考え方に固執することによって、共に害を被る現実。
自分勝手な思いを押し通すことは、自らを傷つけ、他人をも傷つけます。
しかし、お浄土の「共命の鳥」は、自他一如の世界(共にいのち輝く世界)を生きています。
その鳴き声は「お互いは共に生かされいるいのちであり、敬いあい、助けあってこそ、いのちは輝くのですよ」と説いているとも言われています。
「共に帰する世界」は、お浄土のはたらきに目覚めることでもあります。
最後に、「地獄の箸と浄土の箸」というお話を伺いましたので、ご紹介します。
ある日のこと、お釈迦様は、蓮の池から地獄をご覧になりました。
ちょうど地獄はお昼どき。
我先に食卓に突進する亡者の群れが見えてきました。
他を押しのけて前へ出ようとする者、つまずいて転ぶ者、それを踏みつけて乗り越える者。
悲鳴や怒声とつかみあい。
やっと食卓にたどりつくと、そこにあるものは、長い長い地獄箸―食べようと焦れば焦るほど、あっちこっちにぶつかって、せっかくのご馳走がポトリと落ちてしまいます。
とたんに始まる大喧嘩。
どこもかしこも大乱闘。
ご飯もおかずも泥だらけ。
気づいた時にはもう遅い。
みんな一口も食べられず、ブツブツ文句を言いながら、しぶしぶ引き上げていきました。
次の日、お釈迦様は、蓮の池からお浄土をご覧になりました。
こちらも、ちょうどお昼どき。
仏になられた方々が楽しそうに連れ立って、食卓におつきになりました。
ご馳走は特に立派ではありません。
昨日の地獄と大差なし。
そのうえ長いお箸もそのまんま。
さては地獄の二の舞かと、お釈迦様は瞳をこらされました。
ところが、お浄土に生まれた仏様方は、長いお箸を手に持って、互いに相手のお皿から相手の口へ食べさせて「ありがとう」「ありがとう」と拝みあい。
一粒残らずたいらげて、楽しそうに帰っていかれたそうです。