『歎異抄』の中に親鸞聖人の「地獄は一定すみかぞかし(意訳:地獄こそ私の行き着くべき終のすみかです)」という言葉があります。
一般に、私たちは「地獄」の苦を恐れるが故に「浄土(阿弥陀仏の浄土を「極楽」といいます)」を求めるということがあるのですが、親鸞聖人はその「地獄」こそが自身の「終のすみか」だと述べておられます。
この「地獄」ということについて、中国の唐の時代に編纂された『諸経要集』には、「地獄」とは「一つの状態におしこめられ、そこに縛りつけられていることを表す」という意味のことが述べられています。
また、その説明の中に「自在を得ず」とあるのですが、そのことから、自由気ままに夢を広げていく私たちの心を一番深いところから縛りつけている、あるいは現に私をこのような今の在り方に縛りつけている、そういうものを表す言葉が、「地獄」という言葉だと窺い知ることができますまた、世間では「地獄」というのはどこかそのような場所があるかのように理解されていますが、『正法念処経』の中に「汝は地獄の縛を畏るるも、これはこれ汝の舎宅なり」という言葉があります。
つまり「地獄」というのは、どこか遠い未来にあるのではなく、私が具体的に生きている場所にこそあるのだというのです。
おそらく、このことをもっとも自覚的な言葉で明言されたのが、親鸞聖人の「地獄は一定すみかぞかし」という言葉であるように思われます。
このことから「地獄」というのはどこかにあるということではなく、仏法を聞くことを通して、私の本当の相(すがた)を根底から掘り起こして行くところに出会うものだと言えます。
そうすると「地獄」ということを抜きにして私を語ることは、全く意味のないことになります。
なぜなら、この今という現実に私を縛りつけているものこそ、「地獄」という言葉で言い表される、逃れることのできない世界だからです。
親鸞聖人の「地獄は一定すみかぞかし」という言葉は、まさにこのことを踏まえてのものと思われます。
ところで「地獄」といっても、その前提には「罪」を犯すということがあります。
仏教では原因と結果の関係、いわゆる因果の道理を説きます。
「地獄」が結果であれば、そこには当然私が地獄に至るべき原因があることになります。
では、その原因はいったい何かというと、私が作った罪、あるいは悪ということになります。
また、仏教では罪とか悪という場合、その根源に「我執」ということをみます。
「我執」とは、自分へのとらわれということですが、それは因果の道理に暗いことで「無明」といいます。
これは、何も分かっていないにもかかわらず、すべて自分では分かっているつもりになっている心のことです。
したがって、仏教における罪というのは、神に背くとか仏に背くとかいうようなことではなく、自分自身の本当の相に背いているということを言います。
つまり、自分以外の何かに対して罪があるというのではなく、自分のいのちそのものに対して罪があるというのです。
ですから、何かをしたから悪いという、その行為についての悪ではありません。
私がこうして生きていることの、そのことが抱え込んでいる罪なのです。
それは、言い換えると、逃げようがない罪だといえます。
その罪とは具体的には、どのようなものでしょうか。
私たちは生きていくためには、限りなく他の多くのいのちを奪い続けなければ生きてはいけません。
もし、殺すことをやめれば遇い難くして遇いえたこの身、与えられたこのいのちを捨てることを余儀なくされます。
そこに、生きていくということにおいて、与えられ、多くのいのちのお陰によって保たれているこのいのちを、空しく過ごすか過ごさないか。
いわゆる「空過」ということが、私たちの行為としてのもっとも大きな問題として問われることになるのです。
そうすると、一生を空しく過ごすということは、ただ単に自分のいのちという個人のいのちの問題ではなく、私のために死んでいった多くのいのち全てを空しくしてしまうということになります。
したがって、そこに残されている道とは、そのような身を抱えたいのちとして、与えられたいのちを真の意味で成就する、全うすることだと言えます。
まさに、このいのちを空過せしめないということだけが、人間としてのあるべき本当の相だということになります。
では、「空過」することのない生き方とは、どのような生き方なのでしょうか。
それは、私が生きていくために頂いたいのちが無駄にならない生き方をすることに他なりません。
具体的には、「無量寿」という限りないいのちに生まれていくことです。
それがまさに「浄土に帰する」ということであり、私一人が浄土に往くのではなく、私のために死んでいった多くのいのちと「共に帰する」ということなのだと言えます。