小説・親鸞 2014年9月4日

「尋有っ」

眼の前に伸ばしてきた範宴の手へ、尋有は、両手ですがりついた。

「兄君」

「よかった。怪我はせぬか」

「い、いいえ」

唇は紫いろになっていた。

声もふるえて出ないのである。

「手を離すな」

範宴は、濡(ぬ)れ鼠(ねずみ)になった弟を抱えて、河原へ上がった。

「寒かろうが、行く先までは怺(こら)えておれ」

すぐ堤を越えて、また歩いた。

三条の大路をまっすぐ西へ。

一(ひと)叢(むら)の森がある。

頂法(ちょうほう)寺(じ)の境内だった。

そこの六角堂へ来ると、範宴は、堂の一隅に置いた櫃(ひつ)の中から、肌着と法衣(ころも)を出して、弟に着かえさせた。

尋有は、縁の床(ゆか)に手をついたまま、いつまでも面(おもて)を伏せていた。

「おもと、何を泣いているのか」

「自分が恥ずかしいのです」

「なぜ」

「私までが、世評に耳を惑わされて、実は、兄君をお疑い申しておりました。それで、今夜は、お行き先を見届けようと、お後を尾(つ)けて来ましたところ、兄君の夜ごとのお忍びは、この六角堂にご参籠のためと分りました」

「叡山(えいざん)から三里十六町、この正月の十日から発願(ほつがん)して、ちょうど今宵で九十九夜になるのじゃ、お汝(こと)の案じてくれるのもわかっておる、また、師の僧正を初め、月輪殿の御心痛のほども、よう汲んではおるが、範宴が今の無(む)明海(みょうかい)をこえて彼(ひ)岸(がん)に到るまでは、いかなる障(しょう)碍(げ)、いかなる情実にも邪(さまた)げられぬと武士が阿修羅に向うような猛々しい心を鎧(よろ)うて参ったのだ。

そのために、この六角堂へ参籠のことも、誰にも告げず、ただ、深夜の天地のみが知っていた。お汝(こと)が、大乗院からわが身の後に慕うて来たことも、知らぬではなかったが、すでに九十九夜になる今宵のことゆえ、打ち明けてよかろうと、また、師の僧正にも、範宴はかくのごとくまだ無明海にあることをお汝(こと)の口から告げてもらいたい。

――しかし必ずとも、永劫(えいごう)の闇にやわかこのままに溺れ果つべき。必ずやこの身が生涯のうちにはこの惑(わく)身(しん)に、玲瓏(れいろう)の仏光を体得して、改めて、今のお詫(わび)に参ずる日のあることを誓って申し添えておいてくれい、……よいか、わかったか尋有」

「はい……。よくわかりました」

「わかってくれたら、早う帰れ、青蓮院の師のもとへ帰れ。それまでは、この兄もあると思うな。ただ、天地の大きな力と、御(み)仏(ほとけ)の功(く)力(りき)を信じておれ。ことに、お汝(こと)は肉体が弱い、せめて、安らかな心のなかに住むことを心がけて下されい」

範宴はひざまずいて、弟の胸へ向って掌(て)を合わせた。

※「功力(くりき)」=仏教で、功徳の力、効験。