小説・親鸞 春(しゅん)信(しん)佳(か)便(びん) 2014年12月28日

他人が窮すれば窮するほど、それを眺めて、おのれの快味に供えるのが、天城四郎の性格である。

まして。

月輪殿へ押しかけて行って見事に苦杯を舐(な)めた彼は、それへ報うに、あだをもってしずにはいない。

あのことがあって間もなく、巷(ちまた)には誰がいい出すともなく、月輪殿に対して、はなはだ好ましくない風説がさかんに凡(ぼん)下(げ)どもに取り沙汰されて今や九条のその館(やかた)は、市人の興味の的(まと)になっている。

どんなことかというに、いずれも取るにたらない中傷に過ぎないのであるが、衆口は金をも熔(と)かすたとえに洩れず、それがいかにも秘密箱らしく、また、真をなして語りつたえられているから怖ろしい。

月輪殿の人格へ。

末姫の玉日姫へ。

その家族へ。

あらゆる嘘を飛ばして中傷の泥を塗るのであった。

無論、その出どころは、四郎だった。

年を越えても冬空は蕭殺(しょうさつ)として灰色の暴威をふるっていた。

建仁三年の一月の朝である。

綽(しゃっ)空(くう)は、その朝――まだ暗いうちに岡崎の草庵を出て、白河のほとりを、いつもならば西へ下るのに、叡山(えいざん)のほうへ直(ひた)向(む)きに歩いていた。

雲母(きらら)坂(ざか)へかかっても、まだ夜は明けなかった。

憮(ぶ)然(ぜん)として、彼はそこに立っていた。

見覚えのある樹、見覚えのある石、このあたりの草は、かつて玉日姫の涙でぬれたことがある。

万(まで)野(の)の膝の下に敷かれたことがある。

暁(ぎょう)闇(あん)の空で、大きく鴉(からす)が啼く。

――綽空はまた、無言で山へかかった、力のある足どりである、この山坂を九十九夜通いつづけていたころのあの迷いを追っている足ではない。

びっしょりと、満身が汗になる。

白い息を吐きながら、彼は、根本中堂の前に立った。

そのころ、やっと雲は紫いろの海と化して、ほのかに、今日の太陽を生みかけている。

「……まだお寝(やす)みか」

綽空は一つの僧房に裏に立って閉ざされてある戸をながめた。

そこは、座主(ざす)の寝所である。

やがて、中堂の鐘が大きく鳴る。

汗はすぐ氷になって、綽空の肌を噛むように凍えさせた。

しかし、綽空は凝(ぎょう)然(ぜん)として佇立(ちょりつ)していた。

何気なく、彼の眼の前の戸をあけた僧は、そこに立っている人影を見て、びっくりしたように尋ねた。

「あッ、どなたでござるか」

「綽空にござります。座主お眼ざめなれば、お取次ぎくださいまし」

「お、範宴どのか」

僧は、思い出して、いよいよ、いぶかしい面持ちをしながら、あわてて奥へかくれた。

すぐ戻ってきて、

「お通りください」と、いう。

すでに、清掃された一室に慈(じ)円(えん)は坐っていた。

青(しょう)蓮院(れんいん)を出て、慈円僧正は、昨年から二度目の座主の地位について、この山にあるのであった。

「綽空か」

久しく聞かなかったこの声を綽空は下げている頭の上に浴びて、

「はい……」

しばらくは顔を上げ得なかった。