小説・親鸞 去来篇 2015年1月1日

手をつかえて、顔を上げる前に、綽空はこもごもにわきあがる慚(ざん)愧(き)やら懐かしさやらで胸がふさがってしまうのだった。

九歳の童(わらべ)の時から子のように教えられ育てられてきたこの老師と会う時は、どういうものか、いつも御苦労をかけるようなことの場合のみである、済まないといってよいか、申し訳ないといっていいか、いやそんな生やさしい言葉ではいい現わせない感情なのである。

しかも、今朝、唐突にここへ来た用向きは、さらにこの老師にまたもや深刻な御苦労をわずらわすかも知れない問題をひっさげて来たのであった。

いや、あるいは、場合によって叡山(えいざん)の座主たる老師をも敵とするかも知れない大事なのだ。

(どうお話し申そう)綽空はそれに思い惑う。

しかし、慈円はいつもと変らない。

――幾歳(いくつ)になってもまだ子供のように彼を見る癖がついている。

「見えたの、めずらしゅう」

「はい」

老師の近ごろの健康のもようとか、時候の挨拶とか、また、自分が吉水へ入室してからのことどもなど、いうべきことも、詫びることも、山ほど胸にはあるのだったが、今朝はそれさえも長々と述べてはいられない綽空の気持であった。

顔を上げて、すでにここを訪(と)おうと思い極めた時の決心を、今、磐石(ばんじゃく)のように自身の胸に甦(よみが)えらせて、

「今(こん)朝(ちょう)は、師にお願いがあって、参じたのでございます」と、いった。

語気が、異様な力を持って、慈円の耳を打ったと見え、慈円は、きらと、眉の下に眸を澄ました。

「む。……なにかの?」

「お驚きくださいませぬように……」

すると慈円は和(なご)やかに笑って、

「おもとが、さようにまでいったことは、九歳(ここのつ)の時、得(とく)度(ど)を授けてから今日まで、わしは初めて聞いた。

よほど大願よな」

「大願。……真実、綽空が大誓願(だいせいがん)にござります」

「なんじゃ、それは」

「月輪殿のお末女(すえ)の方、玉日姫を、わたくしの妻として乞いうけたいのでございます」

「ウウむ……」

喉(のど)で何かを抑えつけたような慈円のうめきであった。

さすがに動じない老師の面(おもて)もただならない波立ちである。

綽空はとたんにぺたっと両手をついて耳もとを茜(あかね)のようにしているのだった。

「玉日を……妻に……。……妻にとか?」

「はいっ」

「…………」

慈円は大きく唇(くち)をむすんで天井を仰いでいるのだった。

いつまでも、そうして、ふさいだままの眼であった。

ポロ、ポロ……と綽空の顔の下では涙のこぼれる音がする。

やがて、慈円が、

「どういう決心で」

重圧を加えるような低声でこう問うと、弦(つる)のごとく緊張(はり)つめていた綽空は言下に、

「この一身に、念仏門の実相(まこと)を具現いたすために。――また、この身をも、念仏門の実光(ひかり)に救われたいがためにです」

と、全身すべて信念の塊(かたま)りのように構えて、そう答えた。