親鸞・去来篇 2015年2月22日

峰阿弥は、語を次いで、

「だが、山伏どの、他人(ひと)が眉目(みめ)よい妻を娶(めと)るのを、嫉(ねた)むものは、あさましゅうござるぞよ。とういうお怒りか存ぜぬが――」

すると弁円は、

「おれの怒りは、公憤だ、私憤ではない」

「ははは。その両方ではありませんか。野暮な青筋をたてるよりも、妻が欲しくば、ご自分もよい女房を持つのが一番よいではございませんか」

「だまれ、俺をそんな破戒無道な山伏と思うているか。ヘタ口をたたくと、金剛杖をくらわすぞ」

「なぜでしょう? ……」

と峰阿弥は、癖のように、頭を傾(かし)げて――

「なぜ、妻を持つことが、破戒無道でございましょう、戒(かい)は人間が決めたもの、仏がお決めなされたものではありません」

「知らぬか! 畜妻たん肉は、堕(だ)獄(ごく)の罪にひとしい掟(おきて)になっていることを」

「では、東大寺の明一(みょういち)和尚はいかがですか、元興(がんこう)寺(じ)の慈(じ)法(ほう)和尚は堕落僧でございましょうか。遠く、仏法の明らかな時代に遡(さかのぼ)ってみますると、奈良朝のころには、明一や、慈法のような碩学(せきがく)で、妻を持たれたお方は、幾人もあったようでございます。続(しょく)日(に)本(ほん)紀(ぎ)をお読みになったことはありませんか、あの中の延暦(えんりゃく)十七年の条に、太政官(だいじょうかん)の法令として――

 自今、僧侶ノ子ハ

 一切還俗(ゲンゾク)セシメテ

 以而(モッテ)、将来ヲ懲(コラ)ス

 ――と出ているのを見ても思い半ばに過ぎるものがございましょう。

 ために、滔々(とうとう)と、軟弱な弊風(へいふう)があったことも否めません。

 自力聖(しょう)道門(どうもん)が、絶対力を礎(きず)いたのは、そういう時代の反動でございました。

 けれど、自力といい、他力と申しましても、道は一(ひと)すじです、同じ高嶺の月であります、ただ、世道人心のあるところをよくよく見究めてやらなければ、億衆の手をとって、親切に、安住へ導いてやることはできません。

 ただ闇雲(やみくも)に、外(げ)面如(めんにょ)菩(ぼ)薩(さつ)の、たん肉(にく)外(げ)道(どう)の、自力絶対のと、社会(よのなか)が変っても、人心や生活(くらし)の様式(ありさま)が推移(うつ)っても、後生大事に旧学に齧(かじ)りついているのは、俗にいう、馬鹿の一つ覚えと申すもので……。

 はははは、失礼なことを申しましたが……それでは進化がございません、いつまで、己(おの)が一つ救えずに、うろうろと乞食するがやっとの行(ぎょう)で、それでは、野良犬も修験者も、変りがないといってもよいくらいなものでございましょう」

「この、おびん頭廬(ずる)めッ!」

ぴゅう――と杖がとたんに唸(うな)ったと思うと、

「あっ……」と、峰阿弥は俯(う)つ伏(ぶ)した。

「生意気なっ、生意気なっ」

つづけざまに、弁円は打ちすえた。

峰阿弥の抱(いだ)いていた琵琶は、糸が刎(は)ね、海老(えび)尾(お)が折れ、胴が、砕けた。

「黒っ。――さあ寝よう」

吠えたける犬を抱いて、弁円は、元の場所で眠ってしまった。

…………

白々と世の明けてきたころだった。

呼び起されて、弁円がふと眼をさますと、ゆうべの峰阿弥が、火を焚いている。

恨みがましい顔もせず、にこと笑って、

「山伏どの、干(ほし)飯(いい)が炊(た)けました。味噌を舐(ね)ぶって食うと美味(うま)い、ここへ来て召(めし)食(あ)がらぬか」

と、いうのである。

見れば、欠けた土鍋の下に、燻(く)べているのは、砕かれた琵琶であった。

飯のにおいに、黒は吠える。

弁円は、その首をつかまえて、

「餓鬼めっ、後で食わす、乞食法師の残りなど、食いたがるな」

抱きしめて、再び、仰向けになった。

橋のうえには、もう、朝の人々が、往来していた。

その中には、大身(たいしん)から贈る祝い物であろう、これ見よがしに僕(しもべ)に担(にな)わせて、月(つき)輪(のわ)殿(どの)を訪れるらしい幾(いく)荷(か)の吊(つり)台(だい)も通っていった。