庭(にわ)造師(つくり)が入って、古枝を刈ったり、病(わくら)葉(ば)をふるい落したり、五条西洞院の別荘は、きれいな川砂に、箒(ほうき)の目(め)が立っていた。
すぐ裏を行く加茂川の水には、もう、都から遠い奥の紅葉(もみじ)が浮いてくる。
近くは、東山の三十六峰も真(しん)紅(く)に燃えている秋なのである。
建(けん)仁(にん)三年の十月。
綽(しゃっ)空(くう)にとっては一つの到達であり、玉(たま)日(ひ)にとっては忘れ得ない生涯の日が来た。
二人は、婚儀の座に並んだ。
日の座と、月の座のように。
いかに佳(よ)い対(つい)の夫婦(みょうと)であったろうかと、街の者は、ただ、想像に描いた。
しかも、当夜の華(か)燭(しょく)から七日七夜にもわたる招宴や賀(が)車(しゃ)の生きた絵巻を繰るにも勝(まさ)る典(てん)雅(が)婉(えん)麗(れい)な盛(せい)事(じ)は、藤原氏の栄えたころにも稀れなくらいであろうとさえいわれた。
また、月輪殿は、この七日に、俗世の財を、傾け尽しても惜しゅうないといったという噂もつたえられていた。
聟(むこ)の君(きみ)である綽空もまた、必ずしも、この一法師の嫁とりにはふさわしくない豪華と盛大とを、固辞しなかった。
(――すべてこれ仏(ぶつ)陀(だ)のわれに飾りたもう七宝(しっぽう)(*)珠玉(しゅぎょく))と、甘んじてうけている風であった。
さて。
式の翌る日からは、貧民への餅(もち)撒(ま)きやら、施(せ)粥(がゆ)やら、寺院への勧進(かんじん)やら、それも済むと、新郎新婦は、やがて、新しい愛の巣へ、二人だけで移って住むことになった。
ところが――かほどな財を費やしながら、かんじんな若(わか)夫婦(みょうと)の住む家は、別に新しく普(ふ)請(しん)されてもいなかった。
場所は岡崎の松林のうち――家は、綽空がいなければ、栗鼠(りす)が畳を駈けているあの岡崎の草庵なのである。
それでも、屋根(やね)葺(ぶき)一人、入るではなく、まったく、元のすがたのままに。
「あれでは、新妻が、お可哀そうじゃよ」
「月輪殿は、いったい、何のために黄金(こがね)をお費(つか)いなされたのか、どういう量見なのか、とんと、分からぬ」と、知己の者は傾(かし)げた。
誰にも、わかろうはずはない――綽空と、玉日と、その父のほかは。
新妻が、身と共に、そこへ持って行った荷物といえば、一(いっ)荷(か)の衣装と、髪道具と、そして、一輛(いちりょう)の輦(くるま)だけであった。
その輦だけは、さすがに、今度の儀式に新調した月輪殿の好みのものだけあって、綺羅(きら)を極めた物だった。
松林の中にそれを置くと樹洩(こも)れ陽(び)に、螺(ら)鈿(でん)や砂(すな)子(ご)や緋(ひ)の房(ふさ)がかがやいて、妖(あや)しいほど美しいのであった。
(わたしは、こうして暮らそうかと思うが、それは、嫌か)
(忌(いと)いませぬ)新婚の夜の誓いであった。
これは、綽空の希望した生活であり、盛事は、月輪殿の肚だった。
共に、小乗な考え方ではなく、この婚儀は、わが娘、わが聟だけの生活ではなく、仏の旨(むね)を体してする大衆世間への仏婚であり、また、天意をもってする天婚であると固く信じていたのであった。
べつに、召使をおく寝小屋もないので、朝になると、小(こ)禽(とり)のさえずる赤松の林の奥へ、西(にしの)洞院(とういん)から、牛飼や雑色(ぞうしき)が、ぞろぞろと、新郎新婦の草庵へ憚(はばか)りながら、要を聞きに来るのであった。
*「七宝(しっぽう)」=七種類のたから。七珍。無量寿経では、金、銀、瑠璃(るり)、玻璃(はり)、しゃこ、珊瑚、瑪(め)瑙(のう)。法華経では、金、銀、瑠璃(るり)、玻璃(はり)、しゃこ、珊瑚、真珠、ばい瑰(ばいかい)(中国産の美玉)。仏教では しちほうという。