『かぎりなき光をうけてここにあり』(後期)

寺の子ども会に、中国人と韓国人の留学生さんたちに遊びに来てもらった時のことです。

子どもたち一人一人の名前を漢字で書いて、その横に、この名前は中国ではこのようによむ(発音する)、韓国ではこのようによむということをそれぞれ留学生にカタカナやハングルで書いてもらいました。

よみかたって全然違うのですね。

子どもたちも

「えー、全然違う」

と驚いたり、

「おれ、○○っていうんだそ」

と教えてもらったよみかたで名のりあったりしていました。

そこで、今度は私が

「南無阿弥陀仏」

と書いて、

「これはどのようによむのですか」

と聞いてみました。

これまでは全く違うよみかただったので、子どもたちはどんなに変わるんだろうと期待して待っていました。

ところが、中国のよみかたも韓国(朝鮮)のよみかたも、私たち普段発音している

「なもあみだぶつ」

とほとんど変わりませんでした。

「いっしょじゃん」

「変わらないんだ!」

子どもたちはまたまたびっくり。

びっくりしましたが、同じよみかただということがうれしかったようで、留学生と一緒にみんなで

「なもあみだぶつ」

の大合唱をしていました。

インドで生まれた仏教が中国に伝えられて行くときに、中国の僧侶の方々が音写(おんしゃ:そのように発音する文字をあてる)されました。

ですから、

「なもあみだぶつ」

という発音は、もちろん多少の違いはありますが、仏教が生まれたインドから、私たちの日本までつながっているのです。

私たちは

「国」

「民族」

などで壁を作りがちですが、

「なもあみだぶつ」

はその壁を超えて、いろんな時代にいろんな人たちの中で輝いていたのです。

もちろん、子どもたちはそんな歴史のことは知りませんが、国も言葉も違う人たちと一緒に、

「なもあみだぶつ」

と言えたことがうれしかったようです。

そんな経験って、大切かもしれませんね。

「なもあみだぶつ」

とは、訳せば

「かぎりないひかり」

です。

かぎりないひかりですから、分け隔てがありません。

いつでも、どこでも、だれでもそのひかりは等しく照らしてくれます。

いつも子どもたちには、あみだ様はだれでも見ていてくださる仏さまだよとお話していますが、子どもたちにとっての

「だれでも」

の範囲は

「家族」

「ともだち」

などとても身近な世界だったと思います。

でも、そのあみだ様のお名前を国も言葉も違う人たちも自分たちと同じように

「なもあみだぶつ」

といっしょによぶことができたことで、

「だれでも」

とは、身近な人だけでなく、自分の知らないたくさんの人たち、たとえ国が違ってもそうなんだ、あみだ様はみんなのことを見ていてくださるんだということを少し感じることができた時間だったかもしれません。

新しい年が始まりました。

私たちも、わけへだてないあみだ様のおこころを仰ぎ、

「なもあみだぶつ」

お念仏を申しながら、今年も歩んでいきましょう。