不気味なほど、比(ひ)叡(えい)の一山は、このところ静かな沈黙を守っている。
どんな形をもって、再度の報復に出てくるかと思ったが、岡崎の草庵へも、あれなりなんの行動も起してこないのである。
――だが、それをもって、叡山が、山門の僉(せん)議(ぎ)の決議を変更し、対念仏門の考え方を好転したかと見るのは早計で、事実はかえって、いっそう険悪の度を加えていたのだった。
山にも、智者がいる。
「岡崎のごときは、法敵の中核ではない。敵の中枢は、吉水ではないか。吉水こそ、念仏門の本城なのだ。したがって、吉水さえ打(ぶ)っ仆(たお)してしまえば、後は、岡崎の善信だろうが、何だろうが、みな支離(しり)滅裂(めつれつ)となって、社会へ何の力も持たなくなるのは知れきっている」
こう、智者は説いて――
「それを、一草庵の岡崎へなど、度々出向いて、争うなどとは、愚の骨頂だ。聞けば、善信夫婦は、あの後、草庵の法弟みな暇を出し、自分たちの什(じゅう)器(き)から輦(くるま)まで焼いて、吾々の成敗の手を心静かに待っておるらしい様子とか――そういう覚悟の者へ、物々しい返報は、かえって、こちらが大人げなく、世上のわらい草となり、念仏打倒の輿(よ)論(ろん)を邪(さまた)げることとなろう。ただ、吉水を仆せばよいのだ。吉水を仆せば、岡崎などは、そのついでに自滅する。もうくだらぬ暇つぶしはやめて、目的へ邁進(まいしん)することこそ肝要である」
「善哉(よいかな)――」
この説は、山の者を風(ふう)靡(び)した。
そこで彼らは、
「下山(くだ)ろうぞ」と、日を諜し合った。
下山(くだ)ろう――とは彼らの仲間にだけつかわれる合言葉であって、
(やろうぞ)という示威運動の掛声にも通じる。
座主(ざす)にも、それを止めるほどな、力はなかった。
彼らは、すぐ、日吉(ひえ)山王三社の神(み)輿(こし)を出して磨き立てた。
一山三千の大列のまえに、三社の神輿をかついで、京へ下る時には、どんな者でも、その前を遮(さえぎ)らせなかった。
山法師の強(ごう)訴(そ)といえば、弓矢も道を避けたものである。
準備はできた。
朝廷へ捧げるための――「念仏(ねんぶつ)停(ちょう)止(じ)奏請(そうせい)」の訴(そ)文(ぶん)も認(したた)めて、いよいよ明日は大衆が山を練り出そうと息まいている日であった。
「おいっ、中堂から布令(ふれ)だ」
と、呶鳴って廻る者があった。
「集まれ」と、誰いうとなく、山上の根本中堂へ人々は駈けて行く。
大講堂には、もう、人が蝟(い)集(しゅう)していた。
明日、担(かつ)いで下山するばかりに用意のできている三社の神(み)輿(こし)は飾られてあった。
「吉水は、降伏してきたぞ。うわさを聞いて、縮みあがったのだろう、かくの通り、法(ほう)然(ねん)上人(しょうにん)以下、門弟百九十余名、連名をもって、叡山へ謝罪文を送ってきた。今、それを読みあげるから、静かにして聞かれい」
一人の山法師は、大講堂の縁(えん)に立って、吉水から法然上人以下百九十余名の名をもって送ってきたという誓文(せいもん)を、朗々と、高声(こうせい)で読み初めた。