あなたは、時折、年回法要や通夜などの場で法話を聞いた時、どのような感想を持ちますか。
「聞いている時はなるほどと思うこともあるが、生活にはあまり役立たない気がする」と感じているのではありませんか。
また、日頃熱心に仏教の話を聞いたり仏教書を読んだりしているという人は、学んだ教えがきちんと身についていますか。
また、死に対する不安が消えて、世俗的な欲望も起きなくなりましたか。
おそらく、依然として死への不安は消えていないし、相変わらず欲望に振り回されているのではありませんか。
中国の曇鸞大師は「非常の言は常人の耳に入らず」と述べておられます。
「非常の言」というのは、日常生活の中で必要とする言葉ではなく「生死(迷い)を超える言葉」、言い換えると「今まさに死のうとする人を永遠に生かす言葉」です。
そうすると、この言葉は少なくとも世俗の欲望を満たすためのものではないことが分かります。
それがどれほど自分の生活を快適にするための素晴らしい教えであったとしても、また日常生活においては誰もが心を魅了されるような甘美な言葉であったとしても、死を目前にした人の心には全く響くことはありません。
一方、明るい未来を期待し、豊かで便利で、快適な生活を願って生きている人にとっては、この「非常の言」は、たとえ耳にしてもほとんど心には残りません。
なぜなら、「非常の言」は、そのような生活の求めを否定しているからです。
けれども、死を前にした人の心はその反対で、幸福な日常生活を送るための言葉は、どれほど熱心に語りかけられても虚ろに響くばかりです。
仏教の教えの中心にあるのは、「生死(迷い)を超える」ということです。
それに対して、世の多くの人びとが求めているのは、日常生活を明るく楽しく過ごすための手立てです。
そのため、法話をいかに一心に聞いたとしても、そしてその時はどれほど感激したとしても、それは今すぐに必要という訳ではないため、やはり世俗的な事柄が人びとの関心事となってしまうのです。
浄土三部経の一つ『観無量寿経』は、お釈迦さまがマガダ国の王妃であったイダイケ夫人に説かれた教えです。
この教えが説かれたきっかけは、王太子のアジャセが王位を欲して、父のビンバシャラ王を牢獄に閉じ込め、餓死させようとしたことに端を発します。
イダイケ夫人は、夫ビンバシャラ王を何とか救おうと試みるのですが、その行為がアジャセに発覚してしまい、イダイケ夫人も幽閉されて、殺されるかもしれないというような窮地に陥ります。
その時、イダイケ夫人は釈尊に「助けてください」と懇願します。
その願いに応えてお釈迦さまがお城に姿を現されると、イダイケ夫人は自らの飾りをすべて断ち切り、お釈迦さまに向かって
「自分はどうしてこのような悲しみを味わわなければならないのですか。もはや、私はこの世での楽しみは求めません。悪のない永遠の喜びの世界に生まれさせてください」
と訴えます。
それに応じて、お釈迦さまは阿弥陀如来の浄土を説かれた、これが『観無量寿経』ということになります。
ここで問題にしたいのは、イダイケ夫人の仏法の聞き方についてです。
ビンバシャラ王とイダイケ夫人の二人は、アジャセが生まれる以前からお釈迦さまに深く帰依していました。
当然のことながら、すでにお釈迦さまの教えは繰り返し何度も聞いてきたはずです。
もちろん、お釈迦さまは王・王妃といえども、世俗の欲望を満たすような教えは説かれません。
常に、生死を超える道、無常の理について説いておられたはずです。
そうすると、イダイケ夫人は縁起の道理についても、この世の無常についても十分に理解していたと考えることができます。
つまり、王舎城で悲劇が起きた際、イダイケ夫人はお釈迦さまに改めて救いを求める必要はなかったのではないかと言い得るのです。
悲劇が起こるまで、イダイケ夫人は、王舎城の妃としてお釈迦さまの教えに耳を傾け、仏法に導かれて幸福な生活を過ごしていました。
けれども、それはどこまでも生活のレベルで聞いていたのであり、世俗の欲望を否定する仏法を聞きながら、どこまでも世俗の欲望の中でしか聞くことができないでいたのです。
実は、これはイダイケ夫人だけのことではなく、まさに私たちの日常における仏法の聞き方そのものだといえます。
ただし、イダイケ夫人は日頃から熱心に仏法に耳を傾けていたからこそ、「非常の時」、自然と真の仏法が耳の奥に届いたのです。
船を作る際、一番難しいのは大風や荒波を受けて船が傾いた時、元に戻す力「復元力」をいかにつけるかということだそうです。
私たちはこの人生において、いつ「非常の時」に遭遇するか分かりません。
窮地に陥ったイダイケ夫人を救う「復元力」となったのが、日頃から耳を傾けていた仏法だったという事実を通して、いかに日頃からお念仏の教えに耳を傾けることが大切であるかということが窺い知られます。
西本願寺では今「子ども、わかもの、ご縁づくり」を進めていますが、こども、わかものの時から、お念仏との尊いご縁を結ぶことに尽力すべきだと、強く思うことです。