「生信房、おられるか」
庵室の前まで来ると、西仏は奥へ向って、思わず呶鳴った。
ここは以前の竹内の配所とちがって、萩原年景が心を尽して寄進した建築だけに、貧しいながらも一つの僧院らしい形はしていた。
「なんじゃ、西仏」
庵室の横を走っている細い流れのそばから生信房は歩いてきた。
「オオ、そこにいたのか、今のう、この御庵室へ都から二人のお使いが見えるによって、師の房へお告げしてくれい」
「えっ、ご赦免のお使いでも?」
生信房は早合点して、体の肉がぶるぶると顫(ふる)えるような心地がした。
「いや――お使いといっても、公卿たちではない。月輪殿の御内(みうち)に仕えている局たちが来られたのだ」
「女か」
と、すこし落胆したが、それでもこの配所へは空谷(くうこく)の跫音(きょうおん)だった。
「一刻もはやく」
と西仏にいわれて、生信房はいそいで師の室へ上がって行った。
振りかえると、後に残してきた石念を案内にして、月輪家の万野と鈴野の二人はもうそこへ姿を見せている――
彼女たちは、ようやく目的地へ辿りついたと思うと、張りつめていた心が急にゆるんだように、茫然とそこに杖をとめ、
「ああ……」
と、息をついて、顔を見あわせていた。
石念は、そうしている二人のすがたを、物珍しげに眺めていた。
彼は都を知らない若僧(にゃくそう)だった。
この北国の山や樹や田舎人しか見ない眼には、眩いように二人の姿や肌が美しく見えたらしい。
――が、はっと気づいて、
「ここが、上人のおいで遊ばす小丸山の御庵室です、さ、どうぞ」
というと、万野は建物の様をしみじみとながめて、
「配所と申せば、どのようなひどいお住居かと思うて来ましたが、思いのほかおおきな」
「いやいやここへ移ったのは後のことで、それまでの竹内のお住居は、物乞いの寝小屋のような物でございました」
「お師さまは、ご在室でいらっしゃいましょうか」
「おられまする。……さ、こちらで足をお洗(すす)ぎなさいませ」
声を聞いて、親鸞は自分の室から縁へ出てきた。
二人が流れへ寄って足を洗っている様子をだまって見ていたのである。
万野は、玉日の前が未婚のころから侍(かしず)いていた忠実な侍女であった――親鸞のまだ若い日の事どもを何かとよく知っている女であった。
「……万野も老けてきたことよ」
と、親鸞はふと自分の若い日を胸に忍び浮べた。
万野はふと振りかえって、
「まあ!」
と、親鸞のすがたを見あげた。
そしてなつかしげに、
「お変りものう」
と、走り寄った。
すぐ語尾は涙にかすれてしまうのであった。
親鸞は手を取って、
「――はるばると、この遠国へ、さてもよう参ったのう。疲れたことであろう、ともあれ、体をやすめたがよい」
と何も問わずに、ふたりの労をいたわった。
*「空谷(くうこく)の跫音(きょうおん)」=退屈で、淋しい所へ人や手紙が来ることのたとえ。