本願寺前門様が著された「いまを生かされて」(文藝春秋)の中に、宇野浩二という方が書かれた「聞く地蔵と聞かぬ地蔵」という童話が紹介されていました。
昔、ある貧しい村に旅のお坊さんがやってきます。
お坊さんを村人は手厚くもてなしてくれました。
お坊さんは御礼に一対の地蔵を村に残しました。
一つは何でも願いをかなえてくれる「聞く地蔵」、一つは何にも願いをかなえてくれない「聞かぬ地蔵」です。
お坊さんは、「本当は聞かぬ地蔵にお参りする方が良いのだよ」と言い残して村を去って行きました。
村人は次々と、聞く地蔵にお願いして願いをかなえ、病気や災難をまぬがれて、豊かになっていきました。
しかし、豊かになった村ではいさかいが絶えなくなっていました。
村人たちは働かなくなったうえに、他人と比べてより豊かにと望み、果ては他人の不幸さえ願うようになっていたのです。
村の混乱ぶりがここまできた時、お坊さんがふたたび村を訪れます。
そして「聞かぬ地蔵にお参りなさい」と繰り返すのです。
村人は初めに言われたことの意味にようやく気づいて、「聞かぬ地蔵」にお参りするようになったということです。
この短い物語には、人間の願いや幸せに対する価値観や、それを支える欲望の問題が示されているように思います。
私たちの欲望には限りがありません。
次から次へとわいてきて、とどまるところがありません。
欲望を満たすためにあくせくし、自分にとって都合のいいものは際限なく欲しがり、逆に自分にとって都合の悪いものは排除しようとしてみにくい争いも起こします。
そのような私の自分中心のこころを仏教では「煩悩」と言い、お釈迦さまはこの「煩悩」が私たちの人生においての様々な悩み苦しみの原因であるとお示しくださいました。
私たちのご本尊としてお釈迦さまが紹介してくださった「阿弥陀如来」は、「聞かぬ地蔵」のように、お願いをしてもお金が儲かる訳ではありませんし、病気が治る訳でもありません。
阿弥陀如来は私たちの際限のない欲望の果てに、いのちあるもの同士が互いに傷つけあい、自分自身のいのちをも傷つけ貶めて、いのちの大切さ尊さを見失っていく危うい存在であることを底の底まで見通されて、そのような存在であるということを私に気づかせてくださいます。
なりふりかまわず欲望に身をまかせていくのではなく、今、こうして生かされ、与えられているものの価値を見いだし、おかげさまでと感謝することの大切さを仏教は教えています。
それは、お念仏もうして生きていく生き方において、ひらかれてくる世界だと思います。