「まずは仏様にお供えをしなさい、いただくのはそれからじゃっど。」
99歳のおばあちゃんの一言に、
みんなはっとし、思わず背筋を伸ばしました。
公的機関の調査によると
「煮しめ」をちゃんと作れるのは、65歳以上の方々で「灰汁まき」をちゃんと作れるのは、75歳以上の方々だそうです。
つまり、この伝統が次代に伝えられていない、このままではなくなってしまうということなのです。
昔ながらの味、その地域ごとに人々を育んできた味が次の時代に伝えられないのはもったいない。
ということで、昔ながらに煮しめを作れるおばあちゃんたちから、若い世代のものが作り方をしっかりと学び伝承しようという行事を寺で行いました。
おばあちゃんは監督で、若い方々が煮しめを作ります。
谷山の99歳と鹿屋の85歳のお二人のおばあちゃんが監督になってくれました。
普段は優しいおばあちゃんたちですが、この時ばかりは、結構厳しく指導していました。
でもこの行事を企画した一人でもある著名な料理研究家のNさんは、「その指導の一つ一つが適格だ、さすがおばあちゃんたちだ」とうなっていました。
さて、煮しめも見事に出来上がってみんなでその煮しめをいただこうとしたその時、冒頭のおばあちゃんの一言が響きました。
みんなはっとしました。
そして仏前にお供えして手を合わせてから、美味しくいただきました。
その食は、いのちの感謝し、お互いに感謝しあうほんとうにおいしい食であったことは言うまでもありません。
伝え受け継がなければならならいことは、もちろん技術もですが、それと同じくらいに、それ以上に大切なことがこの一言に込められていました。
食材のすべてが「いのち」あるものです。
その大切ないのちをいただくのだから「有難う」という心と
「申し訳ありません」という心で料理をし、いただかなければならないことをしっかりと教えてくださいました。
Nさんが後日、「あのおばあちゃんの一言が本当に教えてほしいことでしたね」と本当にありがたかったと語ってくれました。
「いただきます」を言わない時代になったといわれますが、それは、多くの「いのち」をいただいていること、いろんな方々のおかげさまでこの「食事」をいただいていることが見えなくなってしまっている、わからなくなってしまっているということではないでしょうか。
仏教の言葉に「光に遇う」という言葉があります。
一般には、光を浴びるとか、光に照らされるという表現はありますが、光に遇うとはなかなか言いませんね。
この光は実際の光というのでなく、私たちに大切なことを教え気づかせてくれる教え(言葉)であり、その教えに生きる姿や態度であると考えてもいいかもしれません。
光が闇を破るように教えが私たちの闇を破る。
気づかなかったことを気づかせてくれる。
忘れていたことを思い起こさせてくれる。
自分自身を振り返らせてくれる。
「まずは仏様に・・」というあのおばあちゃんの教え(言葉)はその場にいた若い世代の人たちの心に光となって届き、忘れてはならないほんとうに大切なことを灯してくれたのではないかと思います。
仏さまの教えに生きてきた人たちから次代のものに教えが、生活の中で伝えられていく。
時を超えて受け継がれてきた歴史を思うときに、私たちは無量寿の願い、大いなる願いの中に包まれているのだと思わずにはおれません。