平成29年1月法話 『願われて 阿弥陀の光を生きる』(中期)

「阿弥陀」とは浄土真宗の本尊、南無阿弥陀仏のことです。

「阿弥陀」とは、古代インド語の「アミターユス(Amitāyus)」「アミターバ(Amitābha)」という言葉の音を、中国でそのまま漢字に写したもので、「阿弥陀」という漢字には特に意味はありません。

原意は、「ア」は否定の「無」を意味し、「ミター」は「量」を示します。

したがって「アミター」は意訳すると「無量」となります。

これより「阿弥陀仏」は、「無量の寿命と無量の光明」という無限の功徳を有する仏という意味であることが知られます。

また、「願われて」とあるのは「阿弥陀仏に願われて」ということです。

菩薩は、一切の衆生を救い完全なる悟りを開くために理想の願いを建てます。

これを「本願」というのですが、この本願にはすべての菩薩に共通する総願と、その菩薩独自の別願とがあります。

いまここで「願われて」とあるのは、「阿弥陀仏によって願われている」ということですから、阿弥陀仏の別願を指します。

阿弥陀仏の別願は、四十八ありますが、その中心となるのは「浄土に生まれたいと願い、ただ念仏せよ、救う」と誓われた第十八願です。

そうすると、「願われて 阿弥陀の光を生きる」とは、「私が願うに先立って、私を浄土に生まれさせようと願われる、阿弥陀仏の光の中を生きること」だと理解することができます。

では、「阿弥陀の光を生きる」とは、具体的にはどのようなことなのでしょうか。

親鸞聖人は、阿弥陀仏の徳を表す名前である「尽十方無碍光如来」を解釈される中で、「光如来とは阿弥陀仏なり」と述べておられます。

これは、阿弥陀仏とは光の仏さまだということです。

ただ、光の仏さまといっても、すべての中心に阿弥陀仏という存在があり、阿弥陀仏自身が光っているということではありません。

灯台のように阿弥陀仏という存在があって、阿弥陀仏が周囲に光を放っているということではないのです。

つまり、光のほかに阿弥陀仏という存在があるのではなく、阿弥陀仏とは光のはたらきそのものだということを明らかにしておられるのです。

また、仏教では光を非常に重視しています。

それは、光が闇を破るからです。

光は瞬間的に空間の暗闇を突き破ります。

そのため、その光が無限であれば、この世における一切の闇はこの光に限りなく突き破られることになります。

一方、物事の道理が分からず、迷い苦悩する無智なる心を闇で象徴します。

仏の智慧は、衆生の迷いを破るはたらきをすることから、光は悟りの智慧を象徴します。

したがって「無量の光明」は「完全なる智慧」として理解されることになります

そうすると、光明としてあらわされる智慧とはどのような智慧なのでしょうか。

たとえば、いま室内にいるとして、その部屋が真っ暗になったとしたらどうでしょうか。

部屋の中で移動しようとする場合、私たちは手さぐりをしながら…ということになると思います。

それを今度は人生という場に置き換えると、私たちの生活は「手さぐりの生活」ということになってしまいます。

この手さぐりの生活とは、自分の判断、自分の体験だけを頼りにして生きていくというあり方です。

その時、私たちは物の見方が一面的になってしまいます。

端的には、自分の体験に固執して、物事の本質を見抜けなくなってしまうのです。

仏典の中に、目の不自由な人たちが象の体を思い思いにさわり、象の鼻にさわった人は「象とは筒のような生き物だ」と言い、胴体にさわった人は「象とは柔らかな壁のようだ」と言い、尻尾にさわった人は「象とは紐のようなものだ」と言い争うという話が伝えられていますが、人生という大きな象の全体像が見えないと、鼻、あるいは胴、尻尾だけをさわり、その体験を絶対的な尺度にして人生を見誤ってしまう。

光明としての智慧がないとき、人は必ずそのようなあり方に陥ってしまうのです。

したがって、智慧が光明であらわされるのは、私たち一人ひとりの中にある自分の体験へ執着する心を破るはたらきがあるからです。

つまり、智慧の光明は、あれも知っているとかこれも知っているということではなく、まわりがはっきり見えるということです。

「人間の眼は光そのものを見ることはできないが、光に照らされて我が身を見ることはできる」といわれます。

それは、手さぐりをしている自分自身の姿がはっきりと見えてくるということです。

この場合、「見える」ということは、ただ漠然と眺めているということではありません。

本当に見えたという時は、人はその事実にしたがって生かされていく身になっていきます。

なぜなら、たとえそれが、今までの自分の体験を通して培ってきた価値観や考え方を根底から否定し、消し去ってしまうようなことであったとしても、それが智慧の光明に照らされることによって見えてきた確かな事実である限り、その事実を事実として正面から受け止め、生きていく勇気と情熱がわいてくるからです。

私たちは、手さぐりの生活をしている時は、どこまでも自分の体験だけが拠りどころとなり、自分自身を拠りどころにして生きているような気がするのですが、暗闇の中で手さぐりしている時には自分自身の姿が全く見えてないように、自分自身の姿が少しも見えていないのです。

仏教では、自分が見えてくるということを「分限の自覚」という言葉で教えています。

自分の分限を知るということは、今まで自分の力だけで生きているつもりだった自分が、初めてすべての人びとのお陰で生かされていたことに気付いたということです。

言い換えると、すべての恩徳、すべてのお陰というものが分かるということです。

阿弥陀の光とは、何よりもまずこの私の人生を道として照らし出してくださるのであり、私たちは、その光に照らされて、初めて手さぐりの生活をしている自分の姿に気付くとともに、人生の全体を見通し確かな方向性を持った歩みを始めることができるようになるのだといえます。