平成29年4月法話 『あたりまえのことができる 仕合わせ』(前期)

私たちが日常の生活の中で「あたりまえのこと」と考えていることとは、どのようなことでしょうか。

たとえば私たちは朝、目が覚めて、昨日までと同じように身体が動くことは、どこかあたりまえのことと思っていますが、本当にそうでしょうか。

遅かれ早かれ目が開かなくなる日は必ずやってきます。

身体が動かなくなる日は必ずやってきます。

それは今朝であっても何ら不思議なことではありません。

しかし、今朝目が覚めなくても少しも不思議ではないのに、昨日までと同じように、私には思いも及ばない多くのおかげさまにより、今朝も目が開きました。

身体が動きました。

実は私たちの先輩方は、そのことを仏法を聴聞する中でちゃんといただいておりましたので、

「おかげさまで今朝も目を開けることが出来ました。いのちいただいてありがとうございます」

と、まず一日の始めに仏さまにお礼を申し上げてきたのが、毎朝のお参りの姿です。

私たちは自分に都合の良いことはあたりまえで、都合の悪いことはあたりまえではないと思っています。

朝、目が覚めるのはあたりまえ、目が覚めないことはあたりまえのこととは思えません。

しかし、仏法を聴聞させていただくと、目が覚めることがあたりまえならば、目が覚めないこともあたりまえのことと気づかせていただきます。

あたりまえと思っていたことが決してあたりまえのことではなく、有ることを難しくして有る、ただ今のこのおかげさまのいのちの尊さに感動し、そのことに頷かせてもらえるお念仏の教えに出遇わせてもらっている人は、毎朝手を合わせずにはいられないのです。

それが浄土真宗の大切にしてきた伝統でもあります。

私たちが日常の生活で「あたりまえのこと」と思い込んでいることを、今一度仏さまの教えの中に問いただしてみると、決してあたりまえではなく有難いことであった、仕合わせなことであったといただけてくるのではないでしょうか。