本願のすべてを聞いた上で、親鸞聖人は何を選んでおられるのでしょうか。
愛欲と名利を選んでおられます。
真証の証に近づくことに心を向けないで、未だ愛欲を求め、名利の方に魅力を感じているのです。
ここにまさしく正法を誹謗している者の姿があります。
ですから、たとえ一切の者が救われるとしても、ただ一人、親鸞聖人だけは除かれるという事態が起こることになります。
それが、この
「悲しい哉」
という悲痛な叫びになるのです。
では、この
「悲しい哉」
の叫びと、
「唯除」
の誓いはどのように関係し合うことになるのでしょうか。
ここに『信巻』の最も重要な問題が絡んでくることになります。
この疑問を解く鍵が、この後に続く
「逆謗摂取釈」
にあるといえます。
長々と引用される『涅槃経』の引文の中で、この問題が根本的に解決されることになるのです。
最終的に、親鸞聖人は何に気付かれたのでしょうか。
結局人間は、どこまでいっても愚かであって、臨終の一念までその愚かさを消し去ることは出来ないということが分かったのです。
けれども、その迷い苦しむ愚かな人間を救うのが、まさに唯一阿弥陀仏の本願力だけだということもまた同時に分かるのです。
したがって、本願の救いは、愚かさや苦悩が破れた者の救いではなくなります。
むしろ自分の根源的な愚悪性が明らかになり、その愚かさに慚愧の心、無限の恥じらいをいただくところに、初めてその者こそを救うという、本願の尊い呼び声が真に聞こえてくるのだといえます。
ここに
「唯除」
を誓われた弥陀の本願の重さが知られます。
私たちの姿は、愚かな自分の側で善悪の判断の基準を作ります。
そして、救われるとか救われないといったことを計らうのですが、この愚悪なる衆生に対して
「唯除」
の誓いは、その罪の深さを知らしめ、はからいを捨てて本願の声を聞けという仏の最後の叫びになるのです。
罪の深さを示して、汝こそを救うというのが、この
「唯除」
の言葉になるのです。
だからこそ、親鸞聖人は、汝のみを除くという言葉を通して、
「親鸞一人がための弥陀の本願」
に、真に出遇うことになるのです。
これが三一問答によって開かれた、一心の華文の後に残った
「しばらく」
の疑問です。
一心の真理が分かっても、愚かさが残る。
そのどうしようもない自分への疑問。
「しばらく」
の疑問とは、完全に救われていながら、しかもなおその教えに歓喜できない自分に対する
「もどかしさ」
だと言えますが、結局、よろこび得ないのが凡夫だという、その凡夫の本質に親鸞聖人は目を向けられるのです。
この点は、喜び得ない凡夫をそのまま救うという、『歎異抄』の第九条の思想と重なることになるのですが、この救いに、実は浄土真宗の教えの根本が語られていると見ることが出来ます。
では、獲信の念仏者の仏道とは何でしょうか。
それは、凡夫の真の姿を知り、念仏とは何かを説く。
そこに大悲を実践する念仏者の道があるといえるように思われます。