2019年7月法話『言葉は癒しにも武器にもなる』(前期)

先日、小学生の息子が「お母さんの手伝いをする」と言って皿洗いをしてくれました。続けて1週間ほどしてくれました。ある日、息子の見たいテレビがある日に皿洗いをしていたので、妻が息子に対して、「今日は見たいテレビがあるでしょ。お母さんが皿洗いはするからいいんだよ。」というと、息子が、「いいんだ。自分が皿洗いをしたいからするんだから」と言って皿洗いを手伝っていました。

その言葉を聞いて妻はとてもうれしそうにしていました。二人の会話を聞きながら私もとても嬉しくなり、心が癒された出来事でした。

お釈迦さまは「人が生まれたときには、実に口の中に斧が生じている」といわれました。言葉は人の心を癒すこともあれば、斧となって人を傷つけることもあるのです。

以前、ある研修会に参加したとき、話し合いの中で50代くらいの女性がこんな話をしてくれました。

「私は以前、脳梗塞で倒れて病院に担ぎこまれ入院をしたことがあります」と、話しはじめました。その時は、家族が心配してすぐに駆けつけてくれました。精密検査も終わって先生がおっしゃったのは、「この状況でどこにも障害が残らなかったことは奇跡ですよ」と。

そう言われて、初めて自分のおかれている状況にびっくりされたそうです。その方はお友達が多かったので、入院していることを聞いたお友達が入れかわり立ちかわり、お見舞いにきてくださったそうです。

その中の友達一人が「この病気は、また繰り返し起こりやすいから気をつけてね」と言われたそうです。この友達にとっては心配してのことで、当然悪気があって言ったつもりではなかったのですが、今まさに入院して苦しい思いをしている時に言われた「この病気は、また繰り返しやすいから気をつけてね」という言葉に、とても深く傷ついたと言われました。お友達に悪気があって言っているのではないということはよくわかってはいても、相手にその意識がなくても、受けた側にとっては傷つく言葉もあるのだなということを自分が言われて気づいたそうです。

そして、その方は「自分もいままで知らず知らずのうちに相手を傷つけてきたかもしれない。だからこそ、自分はできるだけ相手の立場になって温かい言葉を使うようことを心がけています」と話して下さいました。人は知らず知らずのうちに人を傷つけている。このことに気づかれたからこその言葉だと思います。

確かに、私自身も知らず知らずのうちにどれだけ多くの人を傷つけているかもしれません。仏さまの智慧の光に照らされることによって、知らず知らずのうちに多くのものを傷つけながら生きているお恥ずかしい自分の姿を知らされ、それと同時にそのお恥ずかしい私をお恥ずかしいままでそのままに包みこんでお救いくださるお慈悲の有り難さをいただくことです。

自分自身の煩悩具足のお恥ずかしい姿に気づかされていくと同時に、その私がそのままにお慈悲のぬくもりの中で包まれ、必ず必ず救われていく身であったことを喜ばせていただくことです。