映画やテレビのドラマなどで時折耳にする「死ぬほど好き」という言葉。現実の世界でも、自分が好意を寄せている異性に言われたらきっと嬉しいと思いますが、それがあまり関わりのない人からだったりすると、この言葉は聞きようによっては「自分のことを好きになってくれなかったら…」という、死をほのめかした脅迫にも聞こえかねません。
また、見知らぬ誰かから「いつもあなたを見つめています」とか言われたりすると、「それってストーカー宣言?」と、不安になったりもします。場面によっては、熱く胸をときめかせる愛のメッセージも、ひとつ間違えば犯罪行為になりかねません。このように、普段何気なく使っている言葉であっても、聞く人によっては、全く違う意味にとられることがあったりするようです。
特に、思想や文化などの異なる外国の人との間では、その国の言葉に翻訳する場合、相手にきちんと真意が伝わるような表現を用いないと、時として大きな誤解を招いてしまうことがあったりします。その有名な事例として、1972年9月、日本と中国が国交正常化をした際、北京の天安門広場に面した人民大会堂で周恩来首相主催の晩餐会が開かれた時の挨拶があります。
この時、中国の周恩来首相は「日本軍国主義者の中国侵略によって、中日両国人民がひどい災難をこうむった」と述べました。これに対して日本の田中首相は、中国により盛大な歓迎を謝したうえで「過去数十年にわたって、わが国が中国国民に多大のご迷惑をおかけしたことについて、私は改めて深い反省の念を表明する」と述べました。
これは事実上、中国侵略に対する“おわび”と受取られるものでしたが、私たち日本人が田中首相の言葉を読んでも、特に違和感を覚えることはないように思われます。ところが、中国側では、「ご迷惑とは何だ。ご迷惑をかけたという言い方は、婦人のスカートに水がかかったようなときにするものだ」と、かなり問題になったそうです。
つまり、中国への侵略にたいして、「婦人のスカートに水をかけた程度の認識でしかないのか」ということです。もちろん、田中首相の意図は日本語的な理解そのままで、決して中国側が怒るような内容ではなかったのですが、友好ムードの裏側ではこのような軋轢が生まれていました。
また、言葉の難しいところは、言葉で他人を傷つけても、それをなかなか自分では気づき得ないことです。
血が出たら
痛いってわかるのに
さっきな
言葉で俺けがしとるんやわ
これは、ある少年の詩ですが、おそらく誰かに言葉で傷つけられたのだと思われます。しかし心のケガは、血が流れ出ないため、どれほど悲しく辛い思いをしていても、決して他の人には分りません。この詩は、その誰にも分かってもらえないもどかしさをうたっているように感じられます。それと同時に、言葉によってどれほど自分を傷つけたか知らないままでいることを、その言葉を投げつけた人のために悲しんでいるようにも思われます。
確かに、誰かにケガをさせた場合、傷口から出血するので、加害者はケガをさせたことに気づくことができますし、あやまちを認めて謝罪をすることもできます。さらに、ケガの程度をおおよそながら予測することもできます。けれども、言葉で傷つけても相手が出血しているわけではないので、自ら気づくことは容易ではありませんし、そのダメージがどれほどのものかということも知るよしもありません。
私たちは、苦境に陥った時、誰かの言葉によって心を癒されたり、勇気をもらったりすることがあります。その一方、心ない言葉で傷ついたり、孤独感に苛まれたりすることもあります。なかなか、人の心を癒したり慰めたり、ましてや勇気を与えたりすることは難しいものですが、せめて自分が誰かに何か言われて嫌な思いをした時は、「この言葉を言われたら、自分だけでなくきっと他の人も嫌な思いをするのだろうな」と、他を思いやる心を持つようにしたいものです。そして、少なくとも自分が言われたら悲しかったり辛かったりするような言葉は、決して他の人に使わないようにしようと心がけるところから、周囲の人々を思いやる心が自らの内に少しずつ育まれていくのだと思います。あるいは、他人のささいな落ち度を「なんでもないよ」と笑顔で応えたり、「大丈夫だから」と相手を気づかう言葉をさりげなく口にできるようになったりするのかもしれません。
まさに、言葉は癒しにも武器にもなります。言葉の大切さを深く心に刻みたいものです。