人は人として生まれて、しあわせな人生を願います。
健康に恵まれ、経済的にも恵まれ長命であればしあわせな一生を過ごしたと言われます。
「しあわせ」という言葉は、今は「幸福」「幸せ」と書くことが多いと思います。
しかし、最近はあまり使われていませんが「仕合せ」と言う表現もあります。
「幸せ」と「仕合せ」はだいたい同じ意味ですが、仕合せには「巡り会わせが良い」という意味も含まれています。
いい上司に恵まれた、いい配偶者に恵まれた、いい友達に恵まれたということもやはりしあわせなことだと思います。
一方、私たちは人が亡くなると「不幸があった」といい、癌などが早期発見されると助かったと言います。
死ぬことは不幸で、助からないということです。
それでは、どんな人でも最後は死んでしまうのですから、誰もが不幸な形で人生を終えると言うことになってしまいます。
ある瀬戸内の島のミカン農家出身の男性の話を読んだことがあります。
彼は、実家は継がず徳島の会社ではたらいています。
父親は既になくなり、母親が細々とミカン農家を続けていました。
時々電話をかけて、母親のことを気遣っていましたが、ある夜電話に母親が出ませんでした。
そこで、近くに住む従弟に確認してもらうと、母親はミカン畑の下草が生えないようにと木の下に敷いていた古畳の上で亡くなっていたそうです。
彼は、その連絡を受けるとすぐに帰って葬式をしました。
そのとき、会社の社長も同行してくれたそうです。
葬儀が終わった後、社長が「誰も“かわいそうな死に方だった”という人はいなかったな」と、感想をもらされたそうです。
それに対して彼は、「母親は日頃からお念仏の教えを喜ぶ人で、周りの人もそのことを良く知っていました。だから、そういうことを言う人はいなかったのだと思います」と応えたと言います。
死んでおしまいではない生き方、死ぬことが不幸ではない人生、それは浄土を恵まれているからです。
阿弥陀さまの教えに巡り会えたことは、何よりも仕合せなことです。
そこには、いい人生、悪い人生と言う考えが入り込む余地はないように思われます。
もちろん、勝ち負けと言う考え方も…。