高校を卒業した1977年、私は18歳で『太陽の家』に訓練生として入所し、ひと月に平均2万5千円の工賃を得ながら社会復帰を目指しました。
「あなたの夢は何ですか」と問いかけられたとき、私はいつも「家族を持つこと」と言っていました。その夢を叶えるためには家族を支える収入が必要です。それには企業等で働き、社会復帰しなければなりません。太陽の家は『保護より機会を』を理念とした開放的な訓練施設で、地域に溶け込み近隣の人たちが自由に出入りし、障がい者に対して何の違和感も感じていないところが魅力的でした。職員もできないことはフォローするが自分でできることには手を出さない。上から目線の指導ではなく、働く同じ仲間として特別扱いをしないことが良かったです。
私は23歳で結婚し、現在2人の娘と3人の孫にも恵まれ幸せな生活をしていますが、結婚までには大きな壁がありました。妻はひとり娘でしたので、妻の家族は強く反対しました。私は妻に「私のような重度障がい者でもいいのですか」と問いました。妻は「あなたは何をするにも自信をもっている。ハンディがあってもハンディと感じさせない。私が好きになった人に偶然ハンディがあっただけだよ」と言ってくれたんです。
私は昨年6月に太陽の家の理事長に就任し、障がい者の円滑な社会参加のための仕事に取り組んでいます。一人で車いすを動かし、活動しています。北海道から九州沖縄まで出張も一人で行き、海外にも何度も出張しています。
2015年に太陽の家は50周年を迎えました。創設者の中村裕先生は整形外科の医師です。1960年にイギリスに留学し、ストークマンデビル病院のグッドマン医師の教えにより、障がい者の持続力と規則正しい生活習慣を身につける必要性、そして社会へ送り出す意義を学び、医師は病気を治療するだけではなく、貴重な人的支援をして社会に送り出すまでが責務であると思いを新たにされました。
さらにイギリスではリハビリの一環としてスポーツを活用していることを発見し、帰国後すぐに障がい者スポーツの普及と振興に尽力され、1964年の東京パラリンピックでは日本選手団長も務めました。翌年1965年には障がい者の働く場として大分県別府市に『太陽の家』が設立されたのです。日本経済が急カーブで成長する時期に社会保障の面も欧米に並ぼうとする時代の空気に太陽の家がめざしたものがマッチした則面もあり、作家や評論家など文化人をはじめ、ソニー創業者の井深大(いぶか・まさる)さん、ホンダ創業者の本田宗一郎(ほんだ・そういちろう)さんなど日本社会に多大な影響力を持つときの人がメディアなどを通じて応援してくださいました。
2012年には特別養護老人ホームを開所。共同出資会社は現在8社あり、協力企業も含めると1860超の方が在籍しています。企業は社員数の2.2パーセント以上の障がい者を雇用しなさいという法律がありますが、私はこの法律がなくなることを望んでいます。それが本来の共生社会につながると思うからです。
中村先生は太陽の家を設立されたときに「人間としての尊厳を保てる、それがあたりまえの社会なのだ。障がい者の雇用が普通のことになる、そんな社会になってもらいたい。福祉の確立があって社会は進歩するのだ。そして、将来は太陽の家がなくなる、私はそういう時代を待っている」と言われています。しかし、現状は中村先生の思いとはほど遠い状況にあると言わざるを得ません。
障がい者雇用が進んでいない理由は2つあると考えています。1つは、企業や企業で働く人たちが障がい者に対する理解のないことだと思います。もう1つは企業が障がい者の能力開発に取り組んでいないということです。