「平和」とは、いったいどのようなことを言うのでしょうか。国際関係においては、「戦争が発生していない状態」を意味します。確かに、人類の歴史を紐解くと、常にどこかで大なり小なりの戦争が繰り返されていることから、それが停止している状態が「平和」と定義付けられているのも分かるような気がします。
元来、戦争は宣戦布告に始まり平和条約や講和条約の締結をもって終了し、これにより平和が到来するとされてきました。第二次世界大戦後に発足した国際連合の憲章下では、一般に自衛権や安全保障理事会の決定に基づくもの以外の武力行使は禁止されています。この戦争の違法化により、宣戦布告をもって始まっていた伝統的な意味での戦争は認められなくなったのですが、現実にはそれ以降も武力紛争は発生しています。
しかも、宣戦布告もないままに武力衝突が起きたり休戦協定も頻繁に破られたりしているため、次第に旧来の戦争の定義をあてはめることが困難になり、戦争と平和の時期的な区別も曖昧になっているという指摘もあります。
また、これまでの国際秩序の維持は、あくまでも国家間での平和維持を共通目標とするもので、各国の国内の人民の安全までを保障しようとするものではありませんでした。そのため、各国内での政府権力による民衆殺戮やテロなどによる人道的危機が国際社会から見過ごされてきたのではないかという問題が指摘され、そのことから、従来の平和創造の歴史は国家間の平和にとどまり、必ずしも人々の安全確保のためではなかったことが問題視されるなど、伝統的な平和観の変容が指摘され人間の安全保障と平和の両立が課題となっています。
特に、国民統合が進まず政府の統治の正当性が確立されていない多民族国家や発展途上国では、周辺国など外部からの脅威に加えて国内の反体制派や分離主義者といった内部における脅威が存在し、その脅威への強権的な対応の帰結として戦争の犠牲者数を上回るほどの多くの命が政府権力の手によって奪われるような人道的危機が発生したりしています。
その背景には、武力行使が禁止され侵略戦争は減少したものの、
- 国際政治での勢力拡張の様式が旧来の「侵略」や「領土併合」ではなく、自国の同盟国や友好国の数を増やすことに変化した結果、同盟国や友好国の内部で発生する非人道的行為が看過されてしまった。
- 核時代の黎明期に「平和共存」平和観が支配的になり、人権侵害を止めるための外交的圧力がかえって国際関係に緊張をもたらし核戦争にまで発展する恐れがあることから、敵対する陣営内の人権問題への干渉は互いに控えねばならなくなり、その結果人権の抑圧等を看過せざるを得ない状況に陥った。
といったことが、その理由として挙げられています。
このように、これまでの平和論は
- ① 軍縮・軍備管理による平和
- ② 戦争違法化による平和
- ③ 経済国際主義による平和
- ④ 相互信頼による平和
- ⑤ 集団安全保障による平和
などに分類されていますが、このほかに
- ⑥ 民主主義による平和論
も考えられるようになっています。けれども、世界の現状は相変わらず混沌を極め、21世紀以降は国家間の戦争よりも「テロとの戦い」が大きな課題となっています。
次に「抑止力」は、国際社会のバランスや核兵器などの話題になると、必ずといっていいくらい登場する言葉です。この他には、犯罪抑止力といった使い方が見られる時もありますが、その多くは政治や外交そして軍事とセットで用いられている印象が強いようです。それでは、「抑止力」とは本来はどの様な意味や使われ方があるのか、由来や類語なども絡めて考えてみます。
まず「抑止力」の意味を調べると、以下の通りとなっています。
- 活動や行為をやめさせる、思い留まらせる力や行動。
- 相手に圧力をかける事で抑え込む。
- 軍事分野では、敵国や第三国に戦争をしないよう働きかけをする行為。
しばしば目にするのは、アメリカを中心にした国際社会におけるバランスとしての意味合いの「抑止力」という使い方で、これは端的には核や軍事力の強化が敵対する国に対する「抑止力」になるという考え方です。
このようなあり方については賛否の分かれるところですが、現実社会においてはこの方向で舵取りが行われています。また、身近なところでは、防犯カメラやドライブレコーダーの設置などが犯罪に対する一定の抑止力となります。
国際社会において「抑止」には大きく分けて2つの考え方があり、一つは「懲罰的抑止」、もう一つは「拒否的抑止」です。懲罰的抑止というのは、敵対する国に対して、「もし相手を攻撃すれば自国も攻撃されてしまうと思わせること」で、攻撃の意志を挫く形の抑止です。アメリカによるいわゆる核の傘で日本を守るという考え方は、この懲罰的抑止に該当します。これに対して拒否的抑止というのは、「相手をいくら攻撃しても防がれてしまうため、敵対する国に攻撃しても無駄だと思わせること」で、攻撃の意欲を失わせる形の抑止です。ミサイル防衛や核シェルターなどがこれに該当します。
冷戦の時代から対抗策や対抗手段として相手を封じ込めるために「核には核で」といった方法や、より巨大な力によってバランスを保とうとするあり方が主流ですが、相手の危険な力を封じ込めるために、相手と同じかそれ以上に危険な力を持とうとすることは、際限のない軍拡が続くことになり、仮にそれが暴発した際の被害は尋常ではなく、さらにそこに抑止力しての考え方を無視したテロが介在すると、とんでもないことに陥りかねません。
端的には、お互いを牽制し軍事的均衡を保つための抑止力として蓄えられている核などが、テロリストによって自爆テロなどに利用されると、抑止力としの意味を喪失し、双方に大きなダメージを与えるだけの単なる危険な兵器になってしまうおそれがあります。これが、現在の抑止力重視の弱点や問題点だといえます。
ところで、この「抑止力」という言葉ですが、その由来は仏教の言葉にあるとする説があります。なお、一般には「よくし」と読んでいますが、仏教で「抑止」は「おくし」と読み、意味は「抑え止める」ということで、「人々が罪業を犯しそうになるのを抑えること」をいいます。
ただし、ここでは「平和」に対する「抑止」ですから、一般的な意味で使われていると考えられます。そうすると、この「平和 大切なのは心の抑止力」という言葉は、どのように理解すればよいのでしょうか。「抑止力」という言葉には①②③の意味があるので、この言葉は「相手の活動をやめさせる力、思いとどまらせる力」になります。これを踏まえて、素直に読めば「平和を維持するために大切なことは、相手の戦争をしかけようとする心に圧力をかけて抑え込むことだ」という意味になります。ただし、「抑止」を仏教的な「よくし」と読めば、「平和を維持するために大切なことは、他と争おうとする自分の心を抑えることだ」という意味に理解できなくもありません。
いずれにせよ、悲惨な戦争を二度と起こさないために何よりも大切なことは、人類の英知を集めて不断の努力を続けていくこと以外にないのではないかと思われます。