2021年2月法話 『仏法 時代が変わっても変わらない真実』(後期)

仏教は今から約2,500年前に仏陀(釈尊)がさとりを説かれたことにはじまります。それから時代・国を超えて、約850年前に浄土真宗をお開きになられた親鸞聖人はお生まれになり、9歳で出家をされ仏門に入られます。20年に渡り修行をされましたが、どんなに辛く厳しい修行を重ねても、煩悩を無くすことができないと悩み苦しまれました。このまま修行を続けるべきかどうか迷われていたとき、南無阿弥陀仏の仏様に出遇われました。

私の方から願い求めるのではなく、すでに阿弥陀如来の願いの中に私がいるということに気づき、そこから感謝の生活を送るのが仏法をいただく人生です。

新型コロナウイルス感染症の影響から、私たちはとても困難な生活を送らざるをえない状況が続いて。

今、私たちの生活は大きな変化の真っただ中にありますが、自分のことばかりが心配になり、周りへの配慮や心遣いが足りていないことはないでしょうか。マスクでの生活から表情が見えず、今一番不安で心もとない生活をしているのは子どもたちではないでしょうか。

コロナ禍における様々な取り組みが展開されていますが、他人の心に、子どもの心に寄り添える私たち大人への課題は重要です。

最初に緊急事態宣言が発令された際、買い占めによる商品の品切れや、自粛警察など様々な問題が改めて浮き彫りとなりました。

数年前の新聞の記事を思い出します。

世間を眺めると、どうやら中高年の男性が、キレたり怒鳴ったりしがちなようだ。バスで高齢男性に席を譲ろうとしたら暴言を吐かれた。中学生の声欄への投書に反響が相次いでいる。

慰める人。同じ老人として恥ずかしいと謝る人。人間を知るのにいい経験をしたと説く人。ともあれ善意に怒気が返ってきたショックは、少年には大きかったに違いない。

木偏に冬と書くヒイラギを思い浮かべる。その葉には鬼の目を刺すという鋭いトゲがある。おもしろいことに、年齢を刻んで古木になるとトゲは自然に消えていくそうだ。つまり角がとれて丸くなる。あやかりたいが、人間、なかなかそうはいかないらしい。

喜怒哀楽の「怒」は大切な感情ながら、ぎすぎすと周囲の空気を凍りつかせてはいけない。いらいらや不機嫌は伝染力が強く、忙しなさは感情の沸点を下げがちだ。

さて当方も中高年の一人。いつも追われているような時代だが、心はゆるやかに今年を締めようと思う。

私たちの生活はこれから更に進化をしていくでしょうが、同時に心の対応は疎かになりがちです。

この中学生が受けたような出来事を見聞きされた方は多いと思いますので、私たちの日々の心がけはますます大切です。

今月は節分でした。節分といえば「鬼は外 福は内」の掛け声がありますが、仏法を聞かせていただくとどうなるかと教えていただいた言葉があります。

「腹がたてば 鏡を出して 顔を見よ 鬼の姿がただで見られる」

自分のことばかり願い求め、自分が鬼のような心と顔をしていることに気づきもしない、いつも見ていないと心配で仕方がない、だからこそ南無阿弥陀仏のお念仏となって、いつでもどこでも一緒にいてくださる仏が南無阿弥陀仏だとお聞かせいただきます。

戦乱の時代も、科学が発展している現代も、仏様の救いに変わりはありません。

どんな命であっても必ず救いとるという広大な仏さまのお心を知らされた時、私たちの日暮は少しずつでも変化をしていきます。

先の見えないこのような状況だからこそ、仏法を聞き、自分以外のことに心を配り、子どもたちに優しい眼差しを送れる生活を送りたいものです。

合掌

南無阿弥陀仏