2021年10月法話 『人は弱いからこそ 支えあって生きる』(前期)

コロナ禍が騒がれ始めて、もうすぐ2年という月日が流れようとしていますが、中々収束を見せません。緊急事態宣言やまん延防止等重点措置法など常に日本のどこかで敷かれており、解除をされてもまた発令される、その繰り返しになっているようです。人間の力ではどうにもならない事があるのをはっきりと知らされる思いです。

この夏、有り難いことに私もワクチンを2回接種させて頂きました。幸い何事もなく安心したのですが、これでもう大丈夫という事ではなく、いつコロナにかかっても不思議ではないという気持ちで生活したいと思います。そして、コロナ禍という中において表題の言葉は、とても大切な心構えになっていくのではないかと思いました。

「人は弱いからこそ支えあって生きる」誰しもが望んでいる事ではないかと思います。しかし、目に見ることの出来ない不安や恐怖は、支え合いとは違った方向に進んでいく側面もあるのではないかと思いました。テレビ、ネットでは、オリンピックやパラリンピック、プロスポーツの試合、大きな音楽ライブなどが感染対策の問題や開催の是非について話題になりました。その中には偏見や同調圧力によって生まれた差別や誹謗中傷もあったのではないかと思います。辛い状況や苦しい状況においてこそ必要なはずの支え合いが、もしかすればそれぞれの考え方や立場の違いによってバラバラになっていくのではないかと、私自身もそのような行動や態度をとっているのではないかと心配になりました。

浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし

(註釈版聖典 P.617)

 

浄土真宗の開祖であられます、親鸞聖人がおのこし下さったお言葉です。恐れ多いことですが、聖人自身が「虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」と仏さまにはほど遠い自身のすがたを嘆いておられます。しかし、どこかそのような自分を大切にされているようにも伺えます。それは聖人がはじめに帰依をされた聖道門、厳しい修行によって知らされた決して滅することの出来ない自分自身の弱さ、最後まで向き合い続けた苦しみや悲しみから来ているのではないかと思います。

しかし、同時にその弱さを知ることが出来たからこそ仏教の深淵に触れ、全ての人に開かれた救いの道を明らかにすることが出来たのではないかと思います。

「人は弱いからこそ支えあって生きる」自分の弱さや相手の弱さを認めるというのは、本当に難しいことなのかもしれません。しかし、その弱さを認めた上からは、決して崩れることのないお互いに支え合う社会が形成されていくのではないかと味あわせて頂く思いです。合掌。