2021年11月法話 『唯信 このこと一つという歩み』(中期)

「唯信」ということについて、親鸞聖人は『唯信鈔文意』という著述の中で、

「唯」は、ただことひとつという。ふたつならぶことをきらうことばなり。また「唯」はひとりというこころなり。
「信」は、うたがいなきこころなり。すなわちこれ真実の信心なり。虚仮はなれたるこころなり。「虚」は、むなしという。
「仮」は、かりなるということなり。「虚」は、実ならぬをいう。「仮」は、真ならぬをいう。本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを「唯信」という。

と、述べておられます。

まず、「唯」とは、「ただこのことひとつという。ふたつならぶことをきらう」と言われ、同時に「ひとりというこころなり」と述べておられます。はじめの「ただこのことひとつという。ふたつならぶことをきらう」という解釈は、よく分かります。いわゆるオンリーワンということです。けれども、親鸞聖人はその後に、わざわざ「ひとり」という註釈を付け加えておられます。これにはいったいどのような意味があるのでしょうか。

はじめの「このことひとつ」「ふたつならぶことをきらう」というのは、選択、つまり選び取ることです。ところが、私たちには「行信に迷う」ということがあります。「行」とは、「何をなすべきか」ということで、自分がこの一生において何をなすべきか分からないという問題です。昔から幼児に絶大な人気のあるアンパンマンの主題歌(「アンパンマンのマーチ」)に

「何のために生まれて何をして生きるの 答えられないなんて そんなのはいやだ」

というフレーズがありますが、まさにそういうことです。

「信」というのは、「信じうるものは何か」ということで、これは何を信じるべきか分からないという問題です。ご門徒の方のご自宅に年回法要などでお参りさせていただくと、お仏壇の中に旅行などで買い求められたと思われる様々な御札やお守り、あるいは仏さまや菩薩さま方の像が置かれていることがあります。一つがだめでも、たくさんやってみれば中にはまぐれ当たりもあるという意味の「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」ということわざがありますが、それと同じように、「いろいろお願いしておけば、どれか一つくらいは御利益があるかもしれない」ということでしょうか。けれども、それは「実はどれも心から信じていない」ということです。なぜなら、「このことひとつ」という頷きがあれば、あれもこれもということにはならないからです。

このように「行信が定まらない」というところに、私たちの悩みの根源があるのですが、それは言い換えると、行信が定まれば、たとえどのような状況に陥っても、その状況を引き受けて生きていくことができるということです。

また、親鸞聖人は「唯」という言葉を、「このことひとつ」ということと同時に、「ひとりというこころなり」と釈されるのですが、この言葉に「ひとり」という解釈が施されるのはあまり見ないことです。とはいえ、考えてみると、何か一つを選び取るという場合、それは必ずひとりで行うことが求められます。そして、求められると同時に、そこにはひとりというあり方が嫌でも結果的にはついてきます。

私たちは、自分の人生において、ひとつの態度を選び取っていないときには、複数の中に紛れ込んで生きることになり、そこでは必ず「みんな」という大勢にしたがって生きることになります。コロナ禍のさなか、よく「同調圧力」という言葉を耳にしました。同調圧力というのは、少数意見を有する者に対して、多数意見に逆らうことに恥の意識をもたせたり、一種の変わり者であるとの印象操作をするために「一部の者による足並みの乱れが社会全体に迷惑かける」と主張したりすることで、少数意見のマイナス面を必要以上に誇張し、多数意見への同意を強く促すあり方です。

その典型が、コロナ禍で盛んに用いられた「自粛警察」とか「マスク警察」というあり方です。これは、緊急事態宣言下であるにも関わらず不要不急の外出をしていると思われる人を見つけると罵倒したり、本人の事情のいかんに関わらずマスクをしていないことを非難したりするあり方を物語る言葉ですが、ここでは誰もが「みんな」という大勢にしたがって生きることが求められています。そのため、従わない人に対して同調するよう、多数意見であることを背景に圧力をかけることになるのですが、多数の中に紛れ込んで、みんなにしたがって生きている限り、そこには「ひとり」ということはありません。

ひとつの選びをする。そのひとつの選びというものは、必ず人間を一人の独立人にします。この場合、既述の同調圧力ということに関して言うと、自分が選び取りをしたのであれば、周囲の状況に関係なく不要不急の外出をしても良いとか、どこでもマスクは不要だと言っているのではありません。社会生活を営む上では、周囲の状況に応じて身の振り方を考えるのは当然のことですし、もしその独りよがりの行為が迷惑をかけたりするようであれば、慎む必要があるのはいうまくでもないことです。

けれども、その一方で私たちは誰もが「自由に生きたい」と思っています。「自由」というのは、「自らに由る」ということです。「由」は「依」に対する言葉で、「依」とは「外のものによる」ということです。それに対して「由」とは「内なる必然による」ということです。つまり「自由」というのは、人に縛られたり支配されたりすることなく、内なる思いの通りに行えるということです。ところが、自身ではなかなか「このことひとつ」という選びとりをすることができないために、一人の独立者となりえずにいます。

なぜなら、私たちは自由を求める一方で、自分自身の判断によって生きてゆくことへの不安や、自分一人の決断で物事を決めてゆくことへの畏れがあるため、むしろ自分を任せきれるものを求めようとしてしまうからです。自由ということは、自分の現実に全責任を持つということですが、そうなると自身の現実に対して一つも言い訳をすることができなくなってしまいます。そのため、私たちはともすれば自分で判断して決断するよりも、自分を支えてくれるものに依存しようとすることで、自由であることよりも安心感を得ようとしてしまうことになるのです。

いろいろな神仏への祈りも、御札を貼ったり、御祓いをしたり、お守り身につけることも、すべて安心感を手にするための手だてです。そして、安心感を得るために、誰もが昔からそうしてきたこと、みんながそうしていることに自分も従う。つまり因習や習俗にしたがって生きることで、「みんなと一緒」というところに心の安らぎを感じようとするのです。

けれども、それは現在の生活の中で自分の生き方を考えていくのではなく、過去からのしきたりで現在を生きていくあり方にほかなりません。確かに、大きな力に身を委ねて生きるあり方は、容易に安心感を得ることができますし、まわりの力のままに生きるのですから、非難されたり批判されたりすることもありません。しかしながら、それはまた安心感とひきかえに自分の貴い人生を放棄する生き方だともいえます。

親鸞聖人は、「唯信」ということについて、

本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを「唯信」という。

と結んでおられます。このはなれるべきとされる「自力」について、『一念多念文意』という書物の中で、

自力というは、わがみをたのみ、わがこころをたのむ、わがちからをはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。と述べておられます。「わが…、わが」とあるように、自分の身、自分の心、自分の力、自分の積んだ善根、そういう「わが」という心を離れることのできないのが自力ということで、すべて自分というものを握りしめている心です。それは、どこまでも自分の心をたのみにして、自分が信じているというその善根をたのみにするということです。しかもその根底には、自分の善根に応じたご利益をいただけるはずだという期待感がよこたわっています。

これに対して親鸞聖人が説かれる他力の信心とは、如来を信じる心ではなく、如来の心です。言い換えると、如来の心をいただくことが信心であって、どこかにおられる如来をこちらから信じたり、何かの御利益を期待して自分の力で信じたりするということではありません。どこかにおられる如来を自分の心で信じるという時には、それは必ず自力になります。つまり「これだけ信じております」ということになり、それに応じた御利益が期待されることになるのです。

一般には、私たちが自分の力で如来を信じ、その信じた如来によって救われる。あるいは、如来の力によって救われることを信じることが信心だと思われているのですが、親鸞聖人が明らかにされる信心はそういうことではありません。

仏法においては、どこまでも法によって救われるのです。したがって私が信じたことによって、直接如来が救われるのではなく、如来はすべての人が等しく救われる法を明らかにされるのです。そして、その法を成就されたのが阿弥陀如来であり、その救いの法に気づいてほしい、その法に目覚めよと呼び掛け続けていてくださるのが念仏です。

それは、信心とは如来を信じる心ではなく、如来の心だということです。つまり、如来の心をいただくことが信心なのです。もし、私たち一人一人が起こす信心であれば、その信心は人それぞれに異なります。けれども、『歎異抄』には

源空が信心も如来よりたまわりたる信心なり。善信房の信心も如来よりたまわらせたまいたる信心なり

と、源空(法然聖人)の信心と善信房(親鸞聖人)の信心はただ一つだとあります。それは、信心とは一人一人が起こすものではなく、如来よりたまわる心が信心だということですから、一つということを意味します。

そうすると「唯信 ことのこと一つという歩み」とは、それぞれが自分の思いであれこれ信じていくというではなく、聞法を機縁として、私の中に如来の心が呼び覚まされ、如来の心によって私が満たされ、如来の心によって私が歩まされることを物語っているのだと思われます。