2021年11月法話 『唯信 このこと一つという歩み』(前期)

これは大事なものだから、大切に保管しておこうとして、当の保管場所を忘れてしまうということがあります。あるいはメモを取っておいて、そのメモが見当たらないということも、残念な結果として起こってしまうこともあります。往々にして、後日見つかるのですが、そうした探し物に時間を費やしてしまいます。

数年前、大先輩のご住職よりお年賀のご挨拶をいただきました。頂いたメッセージにたいへん感じ入って、大切にスクラップしたはずなのですが、その保管場所を思い出せません。ですので、あくまでこれから紹介する以下の内容は私の記憶の中にある年賀状ということになりますので、正確さを欠く表現になるかもしれませんが、失礼を顧みず開陳させていただくことであります。

さて、その年賀状には一枚の写真が印刷されていました。大きな丸い花瓶に艶やかなコスモスが活けてある写真。その写真の下には、「私の妻の七回目の命日に大好きだったコスモスの花を友人からプレゼントしていただきました」と言葉が添えてありました。そして、続く年始の挨拶は次のようでありました。

「ふりかえると、いつもそこには人がいて、一人ではなかったということに気づかされます。本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。」(主意)

ホントにそうだなあ、と思います。ふと、自分のことをふりかえってみると、確かに、いつもそこには、その時に居合わせた人の姿や風景や空気感など同時に思い出されてきます。だから一人ではなかったということに気づかされるのです。

これまで生きてきた歩みを「私」の人生と言ったりします。一人称の「私」です。ですが、本当は、より正確に表現するなら、「私」の人生は、「私たち」の人生なのでしょう。

一人称の「私」の人生は、「私たち」という一人称複数が含まれていて、「私」は「私たち」と相即不離なのではないでしょうか。ほかの例を挙げれば、ここにある一枚の紙も、その「おもて」は「うら」があるから「おもて」であります。「うら」も「おもて」があっての「うら」なのです。同様に関係性の中にある「私」は「私たち」なのです。

今月の言葉は、「唯信-このこと一つという歩み―」でした。

親鸞聖人が著述された『正信偈』には「唯可信(ただ信ずべし)」とあります。聖人があきらかにされた「浄土真宗」の「信」のありようとは、「私が何かを確かに信じて、それをしっかりと握って離さない」心ではなくて、真実に照らされつつ、どこまでも「疑いようもない(無疑)」心のありようとその受け止め、のことです。

「唯信」とは、信じることができるように努力して信じていきます、ではなく(そこには不信が根っこにあります)、疑わないようにしていきます(不疑の根っこにも不信があります)でもなく、「疑いようがない」(無疑)私へと育てられていくことです。

「ふりかえると、いつもそこには人がいて、
一人ではなかったということに気づかされる。」

この言葉を、「私」の歩みは「私たち」の歩みでもあることは疑えないこと、と味わいたいと思います。また別の表現をしますと、これは「私」が「私たち」に「開かれ」ていくことと言って良いのかもしれせん。さらには、ふりかえるとこれまでの「過去」もそうであったということは、これから来る「未来」もそうであるということです。そして、そうした気づきに「今」が「開かれ」てきます。

大いなる「開かれ」である大慈大悲の仏智に出遇わせていただいている、その確かさ(無疑)を、重ねて深く教えられる言葉として紹介させていただきました。