2021年11月法話 『唯信 このこと一つという歩み』(後期)

「唯信」とは、「南无阿弥陀仏 われにまかせよ、そのまま救う」の仏さまのよび声をお聞かせいただくことです。

それは、どこまでいっても自分勝手で、命終えるその瞬間まで煩悩を拭い去ることができない私が救われる道はお念仏しかないのだと、宗祖・親鸞聖人から脈々と伝えられ、今まさにこの私の口から「南无阿弥陀仏」と唱えさせていただくお念仏となり、仏さまのよび声が間違いなく至り届いていることを知らされるからです。

仏さまからご覧になられた私の姿を「赤ちゃん」に例えられる法話をお聞きすることがありますが、他の動物に比べて非常に長い期間、食事を取ることを含め、自分では何一つできず、誰かにお世話をいただかなければ生きていくことができないのが人間の赤ちゃんです。

私自身、我が子の育児を思い返してみると、特に1歳になるまでは一挙手一投足を見逃さないよう注意深く生活をしていました。

眼差しや目線、体や指の動き、お腹の膨らみ加減などなど、その中でも特に敏感で感覚的に鋭くなったのは泣き声に対するものでした。

母親までとは言えませんが、泣き声の音程、大きさなどの微妙な違いが分かるようになり、それが夜中であったとしても体が自然と反応していました。

これは不思議と、他人の赤ちゃんでは分からず、我が子に限ります。

とても微妙な違いであっても、自分でしか分からない感覚を頼りに、喉が渇いているか、お腹が空いているか、オムツを取り換えてほしいのか、抱っこしてほしいのか等を見極め対応していました。

それは、常に私の方が注意深く観察して心を配り、今、この子が何を求めているのかを考えに考えて手立てを講じる。片時も手放すことなく、忘れることのない想いがそうさせてくれたのです。

赤ちゃんにしてみれば任せるしかありません。意に添わなければ泣きわめくこともありますが、それでも親は次の行動を起こし世話をします。

乳児期の記憶は「幼児期健忘」と言われ、3歳以前の記憶はほとんど何も覚えていないことが医学的に証明されているようです。

しかし、子どもの記憶に残っていなくても、親の私にはいつまでも色褪せることのない大切な想い出として残っていますし、この先も私が往生する時まで変わらないのだと思います。

ここに仏さまのお心を知らせていただくことが出来るのだと感じます。

親鸞聖人はご自身の人生を通し、どんなに厳しい修行を重ね仏法を聞いても、自身の心に絶え間なく沸き起こる煩悩が消えることはないと気づかれました。

ではどうすればいいのかと打ちひしがれた時、「南无阿弥陀仏」に出遇われます。

命終えるその時まで迷いの心から離れることのできない私だからこそ、仏さまの方から私に願いをかけていただいた。その願いは「南无阿弥陀仏 われにまかせよ、そのまま救う」のよび声です。

その仏さまのお心を知らされたからこそ、ただただ仏さまの声を聞かせていただく中に、自身の内面を見つめ、お念仏とともに人生を歩まれました。

浄土真宗の教えを聞かれた先人たちは、仏さまを「親さま」とも呼ばれています。

親が子をいつまでも愛おしいと思うように、この私を愛おしいと、いつでもどこでも、片時も離れることなく共に命を生きてくださる仏さまです。

しかし私はどうかというと、大人になるにつれて傲慢になり、一人で生きていると勘違いをしてしまいます。

自分の都合ばかりを願い、自分にとって不利益・不都合なことが起こると、神仏や先に往生された命にさえ責任を押し付けるような悲しい心が出てくる場合もあるようです。

どうして腹をたてているのか、イライラしているのかも分からず泣きわめく赤ちゃんと同じ状況にあるかもしれません。

そのような私だからこそ、心配で仕方がなく「南无阿弥陀仏」といつでも寄り添ってくださり、命の往く先を教えてくるのが仏さまです。

私たちはどのような経験や出会いをしても、命を終えるその瞬間まで、欲望 怒り 嫉み 妬み 煩悩を切り離すことのできない存在ですから、仏様のような執われのない完全に清らかな行いはできません。

しかし、それでも仏法を依りどころとして生きていくことで、喜びも苦しみも分かち合い、少しでも仏様のお心にかなう生き方を目指す人生へと導かれ、仏さまと共に歩ませていただく命をご一緒にいただきたいものです。

合掌
南無阿弥陀仏