2021年12月法話 『「お陰さまで』と年暮れる』(前期)

“実るほど頭を垂れる稲穂かな”

今年の秋も私の地域の収穫前の田んぼは、米を実らせた稲が頭を垂れて綺麗な景色でありました。

その景色を見るたびに、思い出すことがあります。

それは数年前の新聞で小学生の投稿があり、学校の授業で、お米を育てるのは多くの手間がかかると習ったようで、秋に実った稲穂は農家の方や自然の恵みにありがとうと頭を下げているようだという内容でした。

私は実った稲穂が頭を垂れるのは、お米の重さで下がっていると見ていました。

物理的に見ればお米の重さで垂れていることは間違ってはいないのですが、女の子の受け止め方が非常に素晴らしいと感じたことでありました。

その投稿を思い返しながら考えてみますと、私が今日まで生きていることも、私一人の力ではありません。

生まれてから多くの方のお世話になり、育てられてきております。

また、生きていく為にかかすことのできない食事は動物や野菜などの“いのち”をいただいて、私の“いのち”は生きることができております。

当たり前のように毎日を送っているようでも、実は多くのおかげで生かされている“いのち”を生きているのが私でありました。

また、私は浄土真宗という仏教の教えにであい、南無阿弥陀仏とお念仏申す生活を送っております。

私自身はありがたいことと受け止めています。

考えてみますと、これも不思議なものであります。

数多く宗教は存在していますし、宗教を信仰しない選択もあったかもしれません。

多くの人々との出会いや様々な経験を通して浄土真宗の教えにであえたことは、私にとって尊いご縁であり、そのご縁は様々なおかげによって恵まれたものだと思います。

年の暮れを過ごす中、楽しいこと、苦しいこと、悩んでいること・・・考えることは多いですが、多くのおかげで今を生きていることに「おかげさま、ありがとう」の気持ちを大切に過ごしてまいりたいと思うことです。