日本人の多くは
「自分は仏教とかキリスト教とか神道などの、特定の宗教の信者ではない」
という意味で「無宗教」という言葉を使っているように思います。
けれども「宗教」という言葉の意味を考えてみますと、簡単に「無宗教」と言い切ることは難しいようです。
「宗」は「むね」という読み方をします。
昔から、悪いことをした時など
「胸に手をあててよく考えてみなさい」
と言われたりしたものです。
もちろん昔の人も、ものを考えたり反省したりするのは胸ではなくて頭だということは十分に承知していたはずですが、そこをあえて「むね」という言葉で語られたのはそれなりに意味があったよう窺えます。
現代の医学では「脳死」ということも言われますが、今でも私たちの多くが人の死に往く様として思い描くのは、
『脈(心臓)が止まり「ご臨終です」という医師の言葉があって…』といった光景です。
つまり「宗(むね)」という言葉の感情は、
「私が生きているのかいないのかを証する」
といった意味合いが込められているのです。
そして、それを具体的に言葉したものが「教」です。
したがって、「宗教」という言葉は、私が生きていく上で何をよりどころにしているかを問題にしているのだと言えます。
たとえば、
「この世の中には財産(お金)さえあれば、わたし何ら不安はない。だから財産が私の生きるよりどころだ」
という人がいるとすれば、その人は「財産教」だといえます。
また、
「家族や友人、仲間への愛情が生きるよりどころだ」という人は「愛情教」、
「仕事が生きるよりどころだ」という人は「仕事教」です。
あるいは、
「自分は他の何ものをもよりどころとしない。しいて言えば自分だけが頼りだと」という人は「自分教」ということになります。
そうしますと、人は誰も「無宗教」ということはあり得ない訳で、もしそれでも「私は無宗教だ」という人がいるとすれば、それはいったい自分が何を宗(むね/生きるよりどころ)として生きているのか分からない、厳密にいうと「無知宗教」と言うべきだと思われます。
このような意味で、「無宗教ではいけない」のではなく「無知宗教ではいけない」のだと言えます。
さて、私はいったい何を宗として生きているのでしょうか。
そして、そのことに気付いたら、私が宗としていることは、果たしてこの一度限りの人生を託して本当に悔いがないか、つまりその教えそのものが真実の教えであるかどうかが問題となります。
まさに、このような問いと正面から向き合い、決して空しく終わることのない人生を明らかにする真実の教えに出会いたいものですね。