『法事を勤めないとタタリがありますか?』

 私たちは、いったいなぜ法事を勤めるのでしょうか。

一般に、法事が勤められている時の感情の一つに「気晴らし」ということがあるようです。

例えば、法事が終わった後に、時折「これで気持ちが晴れました」とおっしゃる方がありますが、この「気持ちが晴れる」という言葉を、別の言葉で言い換えると「安らかに眠ってください」という言葉になります。

つまり、亡くなった人が安らかに眠ってくださった時には、自分の心が晴れるという訳です。

しかも、それに加えて「私たちの生活を守って下さい」というお願いをしたりされる方もあります。

このような意味で、一般に営まれている法事は「気晴らし+安眠+おねだり」ということがその内部構造になっているといえます。

 けれども、法事を勤めるにあたって一番に考えなくてはならないことは、私にとって亡くなった人がどうなっているかということです。

私にとって、亡くなった人がどういう意味をもっているかを考えてみて、その人が愚痴の種でしかなければ、これは仏さまになっているとは言いえません。

言い換えると、自分に何かうまくいかないことが起きると

「亡くなった人、あるいは先祖の誰かが迷っていて、自分が不幸に陥っている」

と口にする人がありますが、仏さまとは

「迷いをはなれてさとりを開いた方」

ですから、そうしますと亡き方が仏さまになられたとは言いえなくなります。

 浄土真宗では法事のことを「おとむらい」と言いますが、この言葉は

「先に生まれた人は後に生まれた人を導き、後に生まれた人は先に(お浄土に)生まれた人をとむらいなさい」

という教説の「とむらい」から出たもので、漢字は「訪(とむら)い」と書きます。

つまり「とむらい」とは、

「先にお浄土に往かれた方々の足跡を私が訪ねて行く」

ことを意味しているのです。

 したがって、タタリをおそれて義務的に、あるいは気晴らしをするために勤めるのではなく、先にお浄土に往かれた方々の遺徳を偲び、そのご恩に感謝して勤めるのが法事の精神なのだといえます。