「四苦八苦」という言葉があります。日常会話で、大変な思いをしたときなどに「四苦八苦した」と用いられたりしますが、本来は仏教用語であり、人生において逃れることのできない根本の苦しみを言い表す言葉です。
その四苦八苦の中の一つに「求不得苦」(ぐふとっく)があります。言葉の意味は「求めても求めても得ることのできない苦しみ」です。
この「求不得苦」は、3月のカレンダーの言葉「なければないで苦しみ、あればあるで苦しむ」とも重なるのではないでしょうか。
私たちの心とは誠に勝手なもので、たとえ欲しかったものが手に入ったとしても、その喜びも長続きはせず、それに慣れてしまえばもう何も感じなくなり、関心は次の求める物へと移っていきます。
人間は欲によって生かされてあることも紛れもない事実ですが、欲や煩悩に振り回され、その繰り返しの中で苦しみを抱えていくこともまた、目を背けてはならない私たちの姿でもあります。
思うようにならないとき、私たちの心は怒りや腹立ちとなり、いかに心の状態、感情というものが私たちの生き方を大きく左右しているかが知らされます。まさに足ることを知らない私の姿でありましょう。
その自分自身の姿、あり方を問題とし、そこをいかに克服していくかが仏教徒の課題であり、苦しみの原因は私の内にこそあるものです。
仏教の願いは、悟りにいたること。究極には、煩悩の心が消滅する状態にいたることです。その悟りの境地に唯一いたったお方がお釈迦さまであり、その生き方やお姿、説法の言葉の数々が経典となり、仏教として今日に伝わっています。
私たちは命の縁が尽きるその瞬間まで、欲や煩悩が消えることはありません。ついつい自分の都合のいいように物事を考え、それがまた自らの苦しみを生み出していることを、仏教を拠り所とする中に知らされてきます。
私たちには煩悩を消滅することは難しくても、仏様の教えを鏡とし、自分の生き方を正しく見つめ、心を整えていくことはできます。時にはその感情のままに振舞ってしまうこともありますが、「心のありようを振り返り、生き方を見なおす」、その繰り返しの中で心が育まれ、感受性も豊かになっていくのではないでしょうか。