2022年2月法話 『ただ「今」を生きる』(後期)

新たな年が始まり、早2ヵ月が過ぎようとしています。

あっという間でしたか? それとも、「まだ2ヵ月しかたっていない」と、長く感じておられるでしょうか。

どなたにも経験があると思いますが、興味のない事や、やる気がない時の授業などで時計を何度も見る場合、時間はなかなか過ぎていきません。

一方、趣味で過ごす時間やイベント等では、時間がたつことを忘れる程、あっという間に過ぎてしまいます。

同じ時間や期間であるのに、置かれた状況や気持ち一つで大きな違いが生じます。

新型コロナウイルス感染症の影響で、約2年間家族や友人と会えていないという方や、命のご縁をいただかれた方はたくさんいらっしゃると思いますが、改めて人生や生き方を考えさせられたのではないでしょうか。

当たり前が当たり前でなかったと知らされた時、私たちは大きな気づきを得ます。

私たちはみんな、過ぎてしまった時間を取り戻す方法はありません。

また、まだ来ていない未来へ行くこともできません。

詩人・書家として知られる相田みつをさんの詩に「そのうち そのうち 弁解しながら 日がくれる」とありますが、私たちは明日来るのが当たり前、1年先2年先の心配ばかりをしながら暮らしてはいないでしょうか。

仏さまの教えを聞かせていただくということは、「今」を見つめることです。

親鸞聖人は、「ここに愚禿釈の親鸞は、よろこばしいことに、インド・西域の聖典、中国・日本の祖師方の解釈に、遇いがたいのに今遇うことができ、聞きがたいのにすでに聞くことができた」と述べられています。

ご自身の事を「愚禿(ぐとく)」と名乗られ、自身の内面にある悩みや問題を誤魔化すことなく見つめられました。それは、良いことばかりでなく、他者に対する怒りや妬みを消し去ることのできない愚かな姿をしているからです。

だからこそ仏さまの「われにまかせよ そのまま救う」のお声を聞き、わが身を顧みながら感謝の日暮らしをされました。

さらに、「今」遇うことができたとありますが、それは過去でも未来でもなく、今まさにこの瞬間のことです。

どのような私であっても、いつどんな時であっても、片時も離れることなく、この私の全てを包み込んでくださるのが阿弥陀という仏さまです。

不思議にもこの仏さまに出遇わせていただいたからこそ、今を感謝の気持ちとともに生きることができます。

「ただ今を生きる」

もしかすると、とても簡単でとても難しいことかもしれません。

ご一緒に「今」を見つめる時間を少しでも増やしてみませんか。

合掌
南無阿弥陀仏