2022年2月法話 『ただ「今」を生きる』(中期)

もし「あなたは本当に自分のいのちを生きていますか」と尋ねられたとすると、ほとんどの人は「もちろん生きています」と答え、「いのちの他に生きるものなどあるのですか」と、逆に問い返すかもしれません。けれども、私たちは、自身ではいのちの事実を生きているつもりでいても、実は「自分の思い」を生きているのではないでしょうか。

それは、決して自分の人生をいい加減に生きているということではありません。誰もが、それぞれに一生懸命幸せを求めて生きているはずなのですが、その根底にあるのは「自分の人生は自分の思い通りになるはずだ」という「思い」なのです。そのため、自身の現実が思い通りにならないと、そのことから目を背けようとしたり、「私が悪いのではなく〇〇のせいなのだ」と、その責任を他に転嫁しようとしたりしてしまいます。

つまり、自分の身の事実そのものではなく、「自分の思い」を生きようとしているため、思い通りにならないこと、言い換えると納得のいかない事実は、見なかったことにしようとしたり、責任転嫁したりすることに終始しているため、「自分のいのちを生きている」とは言い得ないあり方に陥っているのではありませんか、ということです。

ところで、私たちは人間として生きていく限り、誰もが「生老病死」の四つの事実を生きていくことになるのですが、思い返してみると、私自身どれ一つに対しても納得したという覚えがありません。

まず「老い」ということですが、気がつけば、いつの間にか老境にさしかかっていたというのが正直な思いです。したがって、老いることについて納得したつもりなど毛頭ありません。子どもの頃「21世紀」というのは、遥か彼方の未来のことだと漠然と思っていました。ところが、あっと言う間にやってきて、気がつけばもう20年余りが過ぎ去ってしまっています。あるいは、高校の時「少年老いやすく学成り難し」という言葉を学んだ時にも同じようなこと、つまり「老い」というは、まだまだ遠い先のことだと他人事のように思っていたのですが、老眼になったり、朝早く目が覚めるようになったりすることで、何の心の準備もないまま無理やりに老いの現実を納得させられているといった感じです。

次に「病む」ということも、誰もが「健康でありたい」と思っているはずなのですが、私たちは予期しない形で否応無しに病の事実をつきつけられることになります。殊に約二年前からは、新型コロナウイルスによる感染が世界中に拡大し、少し収まったかと思うと新たな変異株が流行し、何度も感染拡大が繰り返されることで、人々は生活を脅かされてきました。当然のことながら「ウイルスに感染したい」などと思う人などいないはずですが、不本意なままに感染しては、その都度多くの人が苦しんできました。私たちは、決して納得して病むわけでありませんが、ウイルス感染だけでなく、この他にも様々な形で病を患うことを余儀なくされるのです。しかも、身体ばりでなく、現代はストレス社会ともいわれ、心の病もかなり深刻です。外傷であれば、他の人が気付いて案じたり慰めたりもしてくれますが、心の病は外からはみえませんし、自らその苦しさを訴えてもなかなか理解してもらうことは難しいものです。外傷と違って、心の病は「いつ治る」という見込みもなかなか立たないので、そのことで苦しみはよけいに増したりするようです。

また「死ぬ」ことも、なかなか納得して死ぬというわけにはいかないものです。どんなに「今はまだ死ねない」「ここで死ぬわけにはいかない」と思っていても、死ななければならない時がくると、嫌でも死ななければなりません。その時「死にたくない」という私の思いは完全に無視されて、死は現前たる事実となり、私は死んでいくのです。

これら「老・病・死」の元になるのが「生」、つまり「生まれてくること」です。けれども、私は生まれる前に、自らの身の事実に対して何一つ納得したという覚えはありません。気がつけば、日本人であり、男性であり、真宗寺院の長男であり…といった具合です。つまり、自分が生きていく上で、そのことが私の一生を決定付けていくような事柄が、すべて納得しないままに押し付けられていたというのが、「生」の具体的内実だと言えるのです。

しかしながら、その事実の他に、私のいのちの事実もまたありはしないのです。仏教では、そのようなことに対する深い頷きを「宿業」という言葉で言い表しています。それは、自身で選んだ覚えのない事実を私のいのちの事実として正面から受け止め、その事実を確かに担って生きて行くということです。まさにそれが、私が「生きる」ということだと教えているのです。そのような意味で、「宿業」というのは、私のいのちの事実に対する責任感のことだともいえます。したがって、もしその責任を拒否するのであれば、私は何者でもなくなってしまいます。そして、何者でもなく生きるということは、つまるところ生きても生きなかったのと同じことになってしまいます。

ここで、「選んだ覚えのない事実を生きる」ということは、きわめて受動的で、主体性のない生き方なのではないかという疑問が生じます。果たして、「宿業」の事実を担って生きるということは、主体性のない生き方なのでしょうか。そそうではありません。どれほど、自分には責任のないことだと叫んでも、現実にはこの事実の他に私という存在はありません。その事実に責任をもち、受け止めて立ち上がる以外、主体的な生き方というものはないのです。ここでいう主体性というのは、決して自分の「思い」をどこまでも貫こうとするあり方のことではありません。どこまでも我が身の事実を受け止め、その事実を担って生きるということです。

仏教では、迷いを破る「智慧」を「忍」という言葉で説いています。『仏説観無量寿経』で、韋提希夫人は釈尊の説法によって「無生法忍を得られた」と説かれています。この「無生法忍」というのは、「真理にかない形相を超えて不生不滅の真実をありのままにさとること」で、簡単にいうと悟りを開かれたということです。経典では、そのことが「無生法忍を得られた」と表現されています。つまり「忍」という言葉で、「智慧」を表してあるのですが、どうしてわざわざ「忍」という言葉で「智慧」を説こうとしているのでしょうか。

この「忍」という言葉は、辞書には「よくものごとが分かる勝解の義。あるいはものごとの事実をはっきりと認めること。認可決定。あらゆる事柄をはっきりと知り分け認めていくこと」と述べられています。つまり、「忍」というのは「認」ということで「認める」という意味だというわけです。では、それならはじめから「無生法認」と表記すれば良いのではないかと思うのですが、あえて「忍」という字を書いておいて、それは「認める」という意味なのだというのは、やはりそこには「忍」という字で表さなければならない理由があるからだと考えられます。

ものを本当に知るということは、私の頭で考えて受け入れるということではありません。たとえ、それがどんなにつらいことであろうと、どんなに悲しいことであろうと、事実であるならばそれを我が身の事実として受け入れていく勇気、そういう勇気を智慧というのです。したがって、仏教が「忍」という字で表そうとしているのは、事実を耐え忍んでいく勇気のことです。それが、仏教が私たちに与えてくれる智慧だということを教えようとしているのです。

仏教でいう智慧とは、「あれも知っている、これも知っている、何でもわかるようになった」ということではありません。それが、どれほど悲惨でつらい事実であったとしても、それが私のいのちの事実、人生の事実であるならば、それを受け止めていく勇気を賜るということ。そして、その事実を生きていく情熱をいただくということ。それが、仏教でいわれる智慧なのだということを、あえて「忍」という言葉で明らかにしようとしているのです。

私たちはいつも、こうなったら良いのに、ああなったら良いのにと、いつも未来に「思い」を抱きながら、思い通りにならない現実に不平不満の愚痴をこぼしながら生きることに終始していますが、「今」という現実を直視し、その事実を担って生きていくということを『ただ「今」を生きる』という言葉は語りかけているように思われます。