2022年2月法話 『ただ「今」を生きる』(前期)

何かしら心配事や不安があると、今を生きることができませんから、今を生きるということは、安心して生きるということ同じなのかもしれません。

「安心」とは、仏教では「あんじん」と読み、安置心(あんちしん)ともいわれますから、どこに心を置くかが大切となるようです。変わることがない確かなものに心を置いたときに安心して今を生きて行けるのでしょう。

私はこの新型コロナウイルスによって、この世界は心を置くにはあまりにも脆いことを教えてもらったように思います。出会うことが当たり前だった2019年12月に中国の武漢で原因不明の肺炎が数十人いるという小さな記事が新聞に載りました。それからわずか4か月で、緊急事態宣言となり、街から人が消え、マスクを付けずには人前にでることはできなくなり、大切な人と出会うことも満足にはできなくなりました。目に見えない小さなウイルスで、私の当たり前は簡単にひっくり返ってしまいました。私が心を置いて安心していた当たり前は、とても脆かったのです。

浄土真宗をひらかれた親鸞聖人もまた、安心して心を置ける場所を探していらっしゃったようです。親鸞聖人は90歳で命を終えられますが、晩年まで手を加えられ、人生を通してお書きになられたものが『顕浄土真実教行証文類』というお書物です。その後序に「ああ、よかった。安心して心おける場所があった」とおっしゃるところがあります。「慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、」という言葉です。親鸞聖人の心の置き所は「弘誓の仏地」でありました。

弘誓とは、阿弥陀仏という仏の大きなお誓いのことです。星の王子さまも「大切なものは目には見えない」といっておりましたが、この目は大切なものほど見えづらく、阿弥陀仏もこの目には映りません。しかし、今、私たちを抱き、はたらいてくださっています。その阿弥陀仏の「あなたが抱えている苦しみ、悩み、心配事、私が背負いともに生る。そして、命が終わったならば、必ず浄土へ生まれさせ、仏という一番の幸せな姿にする」というお誓いを弘誓といいます。この阿弥陀仏のはたらきは、どんなことがあっても変わることなく、確かなものであるから大地のようだと例えられます。

この親鸞聖人の言葉を通して、すぐにひっくり返ってしまう脆い世界で心置ける場所はなく、心配や不安を抱え生きていく私を、そのまま抱きとってくださる、阿弥陀仏の腕の中=弘誓の仏地こそ、安心して今を生きれる場所であるのだといただいています。