「浅原才市(あさはらさいいち)」

1850〜1933年。

嘉永3年、岩見国迩摩郡大浜村大字小浜(島根県迩摩郡湯泉津町小浜)に生まれる。

昭和8年、83歳で死去。

妙好人が詩を作ったらどうなるか。

才市はその希有な実例であると言われています。

世界も愚痴でわしも愚痴で

阿弥陀も愚痴で

どうでも助ける愚痴の親さま

なむあみだぶつ

わしが阿弥陀になるじゃない

阿弥陀の方からわしになる

なむあみだぶつ

才市の詩は、技巧や彫刻を超えた所に蟻、自然のままであって、宗教的に奥深く、一種の妙技としかいいようがないものだと評価されています。

才市は、58歳頃までは船大工。

その後は、下駄作りを行っていました。

暮らしぶりは慎ましく、儲けたお金は、津波や冷害などの罹災地への見舞金として送ったり、本山の西本願寺へ布施をしたといわれます。

才市が詩を作り始めたのは、いつ頃からだったのか判然としませんが、一説には30歳で九州の博多に出稼ぎに生き、

「今親鸞」

とも称された高僧、七里恒順師から直接教化されたことがもとになったと言われています。

詩は木を削る仕事の合間に鉋(かんな)クズなどに書きつけられました。

それ以外にも、散歩の途中や、仏前での勤めなど、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)の折々に、あたかも滾々(こんこん)と湧き出る泉のように口を衝いて出ました。

詩興が浮かぶと、忘れないように自分の腕や手の甲にも書いたことがあったそうです。

そうした詩をノートに丹念に清書するようになるのは、大正2年、老境に入った64歳以降です。

生涯に残したノートは100冊ほどにものぼります。

書かれた文字は、彼独特の当て字や符牒のようなものが多く、字面を見れば、文字の読み書きが満足にできなかったように見えます。

そのため才市は無学だったとか、いやそうではなかったという議論があります。

けれども、そうした論議はこの際、関係ありません。

なぜなら、詩の内容が全てを語っているからです。

自分独り用の覚書から出発した才市の詩は、きわめて個人的なものでありながら、同時に普遍的なものに昇華しています。

才市が有名になったのは、戦後、鈴木大拙師が内外に紹介したことによります。

大拙師は、才市について

「実に妙好人中の妙好人である」

と絶賛しておられます。