何かと物議を醸し出している時の人麻生総理が行った、国会の答弁での
「私は43歳で結婚して、ちゃんと子どもが2人いましたから、一応最低限の義務を果たしたことになるのかもしれませんよ」
という発言は、すぐに謝罪と撤回をされましたが、様々な方面で波紋を広げました。
そもそも
「二人の大人が、二人の子供を世に送り出した」
という単なる数値上の義務を言ったのでしょうが、我が子の誕生を心のそこから望んでいても、その願いが叶わない人たちに対して配慮を欠く発言には違いありません。
いつぞやは、元首相が女性を出産の道具よばわりしたりと、為政者の言葉に対する配慮の無さは嘆かわしく感じられます。
先の麻生首相の発言の後、
「出産子育ては義務なのか?」
等という議論や、子供を産み育てる事すら出来ない若年世代の生の声が論じられていました。
身の回りを見渡してみると、医療・年金・介護・出産・育児という、人として最も身近な問題が山積していますが、私たち生活者の意識とはかけ離れたところで政治は動いているように見えてなりません。
国会では史上空前の大規模な景気対策と称して、多額の税金が投入されようとしています。
一方で、医療や介護、出産や育児が安心して出来ないという切実な現実が見えています。
出生率が2を大きく割り込み、加速度的に少子高齢化が進む我が国において、社会的・経済的な理由で出産・子育てが出来ない社会が果たして豊かな社会なのだろうか。
また、安心して
「老い」
を迎えることの出来ない我が国は、果たして
「豊かな国」
と言えるのか、受益者負担のかけ声の元に、社会的弱者への負担増が進んでいます。
仏法の根本にたずねると、医療や介護の問題は誰もが他人事ではない切実な
「私」
の老病死の問題であるはず。
たとえ今現在若くて元気であっても、明日病に倒れるかも知れないというのが私たちのいのちの姿と知らされてくるはずです。
また、社会的弱者が社会の援助によって支えられ、いずれ社会に貢献できるようになるかも知れないという、相互扶助が社会のシステムの存在意義ではなかったのでしょうか。
あらゆる想像力が失われつつあるのが、現代の世相だといえます。
今、大切なものをもう一度見つめ直さなければならないように思います。
もちろん民主主義国家であると言うことは、有権者である私たちがそうさせてきたという見方もできる訳で、年々下がる選挙の投票率はある意味では権利放棄と言っても過言でありません。
秋までには衆議院の総選挙も行われる今だからこそ、もっと政治に関心を持って声を挙げなければならないのだと思います。
今ある社会の問題を
「国が悪い」、
「政治が悪い」
と言うばかりでは何も変わりません。
より身近な市町村の選挙も県知事・県議の選挙も、そして国会議員の選挙も、私たちがどんな社会を望みどんな国にしたいと望むのか。
先ずは、投票行動で示すことが私たちの権利であり義務ではないでしょうか。
選挙のある時には、必ず投票に行きましょう。