先月、普段から色々とご指導をいただき、何かとお世話になっているご住職のお父さん(前住職)が、お浄土へと往生されました。
数カ月程前にお会いした時には、お元気そうにしておられたので、突然の訃報にただただ驚くばかりでした。
人生無常の厳しさを、その身を通して私にお示しくださったのだと、厳粛な思いで受け止めさせていただいたことです。
その葬儀の時に聞いたご住職のお話によれば、前住職は、亡くなられる2、3日前から咳が出てなかなか止らず、今日か明日にでも病院に連れて行こうとしておられたのだそうです。
そのような中、前住職は少し休むつもりで横になって寝ておられたそうですが、ふと周囲の人々が気づいた時には、もうすでに息を引き取っておられたとのことでした。
あまりにも突然のお別れで、それこそ
「痛い」
とも何とも言われずに、そのまま静かに眠るように息を引き取られた様子を、ある親族の方は
「これまでひょうひょうと人生を生きてこられた方であったが、お浄土に往かれる時もひょうひょうと往かれたなぁ…」
と、親しみを込めてしみじみと話しておられました。
お参りに来られた方々の中には、前住職とのお別れを悲しみながらも
「私もこんな終わり方ができればいいなぁ…」
と、話される方もいらっしゃいました。
私たちの
「いのち」。
いや、私のいのちは、まさにいつ・いかなる時に、その縁尽きてもおかしくはないいのちです。
そして、そのいのちを今まさにいただいて、こうして生きております。
いのち終わっていくその時、誰もが前住職の様に、まるで眠るかのように死んでいければいいのですが、こればかりは誰にもわかりません。
ひょっとしたら、私は
「死にたくない」
「苦しい」
と言って終わっていくのかもしれません。
しかしながら、その不安の中で生き続けていかねばならない私のことを、阿弥陀さまは常に見護り、支え続け、たとえどうのようないのちの終わり方をしようとも、娑婆の縁尽きたと同時に、ひかりといのち極みなきお浄土の世界へと導いてくださいます。
その阿弥陀さまの力強いおはたらきの中に育まれながら、1日1日を大切に歩ませていただくことです。