私たちが生きて行く中で、うまく言葉にし難いような漠然とした形で抱えている不安は何かといえば、それは究極的には時間と空間へのおそれの二つだと言えます。
「時間へのおそれ」というのは、自分のいのちがあとどれだけ残っているのか分からないということです。
仏教では全ての結果には原因があるとして「因果の道理」を説きますが、それに依れば私が死ぬという結果に至るのは病気や事故などがその原因なのではなく、生まれたことにあると教えます。
つまり「なぜ死ぬのか」というと、それは「生まれたから」に他ならないというのです。
したがって、病気とか事故は条件〜仏教ではこれを縁といいますが〜既に生まれた以上、因果の道理によって私たちは必ずこのいのちを終えていかなくてはならないというのです。
しかも、その死の縁は無量であるといわれます。
ところが、その死がいったいいつ私を襲うか全くわからないのです。
このようなことから、私たちは「時間へのおそれ」によって縛られているのだといえます。
次に「空間へのおそれ」ですが、死の縁は無量ですから、病気・災害・不慮の事故など、災厄はいつどこから私を襲うか全くわかりません。
「一寸先は闇」という警句がありますが、事故などは一瞬にしておきますし、病気などにしても脳・心臓系の疾患は突然という形で、内側から私たちを襲います。
まさに、見えざる「空間へのおそれ」が、常に私たちを縛っているといえます。
仏教では迷いのことを「無明」といいます。
これは、真っ暗闇ということではなく、その通りには見えていないにもかかわらず、その事実に気付いていないというあり方です。
言い換えると、知らない自分でいることを知らないということです。
私たちは、自分のことは何でもわかったつもりでいますが、実はわかったつもりになっているだけで、真の意味で実のごとくに見ることはなかなか出来ないのです。
また、私たちの眼は暗闇ではものを見ることは出来ません。
そのため私たちの眼のことを「借光眼」といいますが、光の力を借りて初めてものを見ることが出来ているのです。
ところが、そうであるにもかかわらず、私たちはその事実に気付かないままに生きています。
それはまるで、暗闇を手さぐりで歩いているのと同じで、そのために何かに躓いたりぶつかったりしても、いったい何に躓いたのか、何にぶつかったのかがさっぱりわからないままに右往左往し、時間と空間へのおそれを漠然と感じながら、その解消を占い・日や方角の吉凶などに求めてしまっているのです。
そのような私たちを智慧の光で照らし、進むべき道、あるべき姿を示して下さるのが仏さまだと言えます。
けれども、迷いに満ちた私たちには、智慧の光を見ることは出来ません。
「人間の眼は光そのものを見ることは出来ないが、光に照らされて我が身を見ることは出来る」
と言われます。
具体的には、さまざまな仏縁を通して繰り返しみ教えを聞き、自分の姿を省みることの中に、常に仏の智慧に導かれて生きる私を見いだすことが出来るように思われます。