『仏の智慧に導かれ おそれなく生きる』

親鸞聖人の書かれたものの中に「空過」という言葉がよく出てきます。

「空過」とは、本当の幸せを得ることがない限り、自分の一生というものは無駄に終わってしまうことを物語る言葉です。

 私たちは、誰もが自分のいのちを精一杯に輝かせて生きたいと願っています。

けれども、なかなか人生は自分の思う通りにはならないものです。

長く生きればその分だけ、愛する人や大切な人達と「死別」という形での悲しい別れを経験しなければなりません。

その反対に、社会生活を営んで行く上では、内心嫌だなと思う人とも表面的にはにこやかな顔で付き合いをしていかなくてはなりません。

あるいは、自身が病気をして苦しんだり、不慮の事故や災害に見舞われるたりすることさえあります。

しかも、これらの出来事は、いつどこから私を襲うか全くわからないのです。

そのために、私たちは災厄を免れようと神仏に祈りを捧げたり、常に日や方角の吉凶を確かめたりするなど、自分に不幸をもたらす目に見えない何かをおそれ、その呪縛によって不自由な生き方をすることを余儀なくされています。

けれども、どれほどそれらを忌避しようともがいても、愛する人との別れや、悲しみ、苦しみは予期しない形で私の人生にふりかかってきます。

親鸞聖人が「空過」という言葉で問題にされたのは、私の人生におきる事実の全てが空しいものに終わってはならないということだと思います。

つまり、たとえ苦しくても悲しくても、その苦しみが本当の意味で空しくない、悲しみの中に人生の意味が見出され、苦しみの中にも無駄ではなかったと言えるものが感じられない限り、人間の一生というものは「生きた」と実感することが出来ないのではないか、これが親鸞聖人のお心持ちだったのではないでしょうか。

ほんとうの幸せとは何なのか。

人生を無駄に終わらないような生き方とは何なのか。

それを限りなく求めていかれたのが、親鸞聖人のご一生であったように窺えます。

そして、このことを真摯に求めていかれる中で、私が願うに先立って、既にして私のことを願い、よび続けていて下さる仏さまの声に目覚めていかれたのだといえます。

そして、仏の智慧に導かれて生きていることを深く自覚しておられたが故に、日や方角の吉凶、災厄から逃れるための神仏への祈祷・占いなどに縛られることなく、なにごとをもおそれることのない自由の大道を歩いて行かれたのだと言えます。