無意識の内になのですが、私たちは常に
「裁きの心」
をもって周囲の人とふれあい、同時に他の人を
「裁きの眼」
を持って切り刻んでいるといわれます。
では、それはいったいどのようなことなのでしょうか。
相手を自分の思いで切り刻みながら出会うというのは、決してその人の心をあるがままにとらえようとするのではなく、自分の一方的な思いで見ようとしたり、自分の都合に合わせて評価しようとしたりすることです。
確かに、振り返ってみますと、私たちはしばしば周囲の人と
「出会っている」
とか
「つき合っている」
とかいうことを口にしますが、実はいつもその出会いや付き合いの根底には、裁きの心が潜んでいるように思われます。
具体的には、その人の性格や能力であったり、あるいは経済的な面であったり、社会的地位であったり、また自分にとって都合の良し悪しでその人のことを評価してしまうといった在り方のことです。
したがって、私たちの一生というものは、常に自分の思いを通して他の人と出会うばかりで、また事実をみる見方においても、いつも自分の思いを中心において見ようとすることにとらわれています。
つまり自分の思いだけで周囲の人と出会い、自分中心に世の中をとらえることに終始しているのです。
けれども、自分の家族とかより近い人のことだけは誰よりもよく分かっているような気がするのですが、経典には
「近いからといって、必ずしもよく見える訳ではない」
ということが説かれています。
一般には、遠くにあるものよりも近くにあるものはよく見えるものですが、ただし近すぎると今度はピントが合わなくてかえってよく見えません。
私たちは、父母、兄弟、姉妹に囲まれて生きていると言いますが、しかし本当は一度も父母、兄弟、姉妹というものと出会ってはいないのです。
なぜなら、いつも自分の思いでしか父母、兄弟、姉妹に出会っていませんし、まさしく自分の思いを持って父母、兄弟、姉妹を切り刻んでいるばかりだからです。
例えば、私たちはよその家庭の良いさまを目にすると、親なら親に対して、妻やあるいは兄弟姉妹、子どもに対しても
「こうでなくてはならない」
という自分勝手な枠をはめながら見ています。
しかも家族が自分の意に添わないと、おそらく他人であれば絶交、あるいは修復不能というような内容の言葉を平気で投げつけてしまうことがあります。
まさに、お互いに自分の思いをぶつけ合いながら生きているのです。
ところが、そういう自分の在り方が分かるのは、多くの場合その人に死なれた時です。
その人に死なれてみて、自分の身勝手な思いが砕け散り、初めてその人のことを枠にはめて見ようとしていたことに気付かされるのです。
それは、いかに自分がその人に本当に出会ってはいなかったかということの証に他なりません。
このように、私たちはいつもその人の気持ちよりも、自分の思いをもってその人を測ろうとしています。
「親ならばこうしてくれて当たり前ではないか」
という思いが先に立って親に会う。
けれども、そこには不平不満というような思いしか出てこないのが私たちの常です。
ですから、私たちの裁きの心が捨てられたとき、はじめて父母を父母として出会う、兄弟を兄弟として出会うということがあるのです。
したがって、私の身勝手な思いというものが捨てられなければ、いつも会い詰めに会いながら一度も会わない、毎日その人と顔をつき合わせながら、結局その人と一度も出会わなかったということになってしまうのです。
そういう意味において、私たちが他人と出会う在り方の、いつもその根底に貫かれているのは、自分の身勝手な思いだということに気付かされるとき、そうであるにもかかわらずそのような私が今ここにこうしてあるということは、まさに
「周りの人に許されて」
のことであるということが深々と頷かれるのではないでしょうか。