2年ほど前のことだったでしょうか。
ミャンマー(ビルマ)における軍事政権に対する暴動が、メディアに大きく取り上げられました。
軍事政権は武力でもって暴動を弾圧し、その弾圧に対して抗議した市民までもがまた、治安部隊に襲撃されるという、悲しい悪循環が続きました。
また、昨年の北京オリンピック聖火リレーの際にも、理不尽な理由で故郷を奪われ、厳しい弾圧に耐えてきたチベットの人々の怒りが、暴動となって起こったことも記憶に新しいところではないでしょうか。
これらの暴動の背景には、政治的な圧力や、これまでの歴史が複雑に絡み合っていることでしょう。
しかしながら私が一番驚いたことは、民衆と共に仏教の僧侶も暴動に加わっていたということです。
私は、これまでお坊さんが暴動に加わるのを目にしたことはなく、初めの光景でしたので、大きな衝撃を覚えました。
ミャンマー、チベットと言えばアジアの中でも有数の仏教国であり、本来ならば非暴力を貫くお坊さんが暴動を起こしたということがどれほどのことであるのか、その国の悲惨な実情をその姿から垣間見たような気がしました。
チベットにおける暴動に関して、ダライ・ラマ14世は声明を出され、最後の締めくくりに次のように言われました。
「私たちは、たとえ間接的にでも暴力と受け取られかねない、いかなる行為をもすべきではないのです。
たとえ耐え切れない怒りに駆られているとしても、私たちが育んできた深く尊い価値を傷つけるようなことをしてはならないのです。
(中略)事態がいかに厳しくとも、非暴力を実行し、非暴力の道から外れないでください。」
(2008年4月6日、インド・ダラムサラ)
『宝蔵経』という経典の一節に
「怨むことなき教えを仏教となし、諍うことなき教えを仏教となし、誹ることなき教えを仏教とする」
という言葉が出てきます。
怨むこと、争うこと、相手の悪口を言うこと。
正に私たちの実態をそのまま言い表しているように思えてなりません。
また別の言い方をするならば、私が生きていく上での苦しみの元凶は、この三つに尽きるとも言えるのではないでしょうか。
相手を思い、相手を認め、他を決して否定することなく違いもしっかりと受けとめて、お互いを許し合える。
これを実践するのは大変難しいことですが、努めて心がけていきたいと思います。
ダライラマ14世の言葉、そしてお釈迦様の教えに、私たちも同じ仏教徒として、今こそ真摯に耳を傾けたいものです。